はじめに

ようこそ。

 

この場は、書籍、音楽、映画、雑感、などなど、今の自分がどんなことを考え、どんなことに興味をもっていたのか、後で見返すためのもの…?

 

じゃあわざわざブログとして世に出さずともよいではないか、日記でもつけとけ、と心の中の別の自分が騒いでおりますし、後々このブログの方向性がわからなくなることを避けたいということもありますので、少々。

 

平安時代において、日記とは他人が見る可能性のあるもの、さらに言えば他人に見せる前提のものであったそうです。

されど世は平成、日記とは自分以外の人に見せるつもりがないものなのではないでしょうか。それゆえに、書きたいことを書きたいように書く。歓喜も悲哀も罵倒もなんでも。まあ心の中の別の自分がかえってそれを統制する場合もあるでしょうが。

かく云う自分も、昨年度は日記なるものをつけておりました。毎日ではありませんが。その中には、向こう一か月の目標など完全に自分の中で完結するものもありましたが、いくつか、自分以外の人にも共有したい、と思いながら書いたものもありました。

 

自分以外の人にも共有したい、これをこのブログの原点にします。ただ、今の自分自身を知ってもらう、というよりは、今の自分の考えを知ってもらう、というニュアンスです。そもそも、「人に見られている」ということが潜在意識として存在する以上、「自分自身を知ってもらう」というのは「自分自身の理想像を知ってもらう」ということにすり替わりがちです。だから、「自分自身を知ってもらう」という方へ進むべきではない、と。それよりも、ふと思ったこと、触れてよかったコンテンツ、などを、できるだけそのまま、脈絡なく書いていきたいです。ただし、共有したいものだけ。

また、自分以外の人とは誰か、といえば、親しい一部の方々や、ネットサーフィン中に偶然通りかかった方々、でしょうか。

 

今まで、旅行記のブログ、ゲームの攻略ブログ、受験ブログ、書評ブログ、などなど、様々なブログを読んできましたが、共通する大元の感想は、「書き手は、読者を想定しており、また同時に読者に存在してほしいのだろう」というものです。ここに素直になれないブログには、読んでいて違和感を覚え、ゆがんだ印象を受けました。ですから、このブログはそこに素直でありたい。共有したいことがあり、読み手がいるからこそのブログ。じゃなかったら日記でやれ。ところで日記における読者とは未来の自分ってことですかね。

 

 

ちなみに現在2017/1/15 3:05です。この記事が常に最新であるような日時に投稿したことにしました。いつ飽きるかな。

ヤマメとサクラマス

何かを選ばないといけないような、

何か一つに決めないといけないような、

ある種の強迫観念が年々強くなっているような、

どうもそんな気がする。

普段はかなりヘラヘラフラフラしているがそれは仮の姿であるというか、同じ布の表と裏のどちらを見ているか、ということに過ぎないような気がする。ヘラヘラフラフラしなくて済む人は、ヘラヘラフラフラする必要がない。羨ましい。

覚悟がないとか、責任感がないとか、そういう話ともちょっと違う。自分で言うのもなんだけれど、むしろ、それは多分人よりも強いような気がしている。

 

 

 

 

 

 

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2023年8月某日

 

 

青春18きっぷを使って、実家から在来線を乗り継いで東京に戻ってきた。午前中に出て寄り道をしつつ、東京に着いた時にはすでに夜だった。

 

 

途中、祖母宅の最寄り駅のあたりに差し掛かったあたりで、中学生の男子が3人、押しボタンを押して電車のドアを開け、車内に乗り込んできた。発車後、それぞれが夏休みの出来事を話し始めた。

「まず、新幹線で東京に行って、ディズニーに行ってさ」

「ディズニーのホテルに泊まってさ」

「次の日は原宿に行って、Supremeの古着Tを3万円で買ってさ」

「全部でXX万円、一人で使ったんだよね」

 

 

明治初期、厳しい窮乏の中にあった長岡藩に、救援のための米百俵が届けられました。米百俵は、当座をしのぐために使ったのでは数日でなくなってしまいます。しかし、当時の指導者は、百俵を将来の千俵、万俵として活かすため、明日の人づくりのための学校設立資金に使いました。その結果、設立された国漢学校は、後に多くの人材を育て上げることとなったのです。今の痛みに耐えて明日を良くしようという「米百俵の精神」こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要ではないでしょうか。

(2001年5月10日 第151回国会における小泉純一郎首相(当時)所信表明演説より)

 

 

でも、寄り道までして食べに行ったラーメンは確かに美味しかったし。人のことを言うのは簡単だけど。難しい。

 

 

あと、話は変わるけれど、実家を離れて東京に戻ることを、「東京に帰る」とは言いたくないな、とも思う。

 

 

 

 

 

 

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2023年8月某日

 

 

青春18きっぷの残りを消化しようと思い、弾丸で山陰をまわった。寝台列車を唐突に予約して島根に行き、3泊したのち18きっぷで萩へ向かった。長旅が予想されたこともあり、出費を抑える意味合いからも基本的にゲストハウスやカプセルホテルを転々としており、萩でもゲストハウスに泊まった。

 

 

最近のゲストハウスはカフェ併設型だったりすることもあり、内装や設備、家具にこだわっているところも多い。萩でのゲストハウスもその例に漏れず、切れ味の良い包丁や綺麗なお皿を自由に使えるキッチンを備えていた。近くのスーパーで良さそうなカンパチとイカを入手し、刺身にしていったん冷蔵庫へ。

 

 

シャワーを終えて、冷やしておいた刺身とビールを取り出してひとりで飲んでいると、スタッフの女の子がやってきて、食べ終えたと思しき夕飯の容器を洗い始めた。(いちいち覚えていて、無駄に記憶力が良くてキモい。)(以降、適宜ぼかしたり変えたりしながら書いています。知らん人にこんなところに丸々書かれるのもなんかキモいだろうし申し訳ないので。)

 

 

 

 

その後、どういうわけか一緒に刺身を食べ始めた。一緒にお酒を飲まなかったのは彼女がまだ大学2年生、19歳だったから。知らない街で知らない19歳と刺身を食べるの、ちょっと犯罪だなと思いつつ、まあ一瞬のきらめきだしな、みたいなよくわからないことをビールを飲みながら考えた。

 

 

彼女はいわゆるヘルパーというかたちで、このゲストハウスを探し出してわざわざやってきたのだと言う。ヘルパー、2週間とか1ヶ月とか人によってまちまちだけど、ホテル運営をヘルプする人。お給料は出ないし食費は自腹だけれど、掃除や洗濯を手伝う代わりにその期間のあいだはタダで泊まっていいよ、というシステムらしい。そんなのあるんだ。学生時代にやってみたかった。

 

 

「でもお店の人や地域の人が差し入れをくれたりするし、食材も割と安いからそこそこの貯金でもやれるんです。何より、出費がマイナスだとしても得られる人生経験が段違いに良いので。」

ーーーそれはそうですね。むしろそれは実りある時間とお金の使い方ですよね。

「今年の3月に初めてヘルパーをやったんです。京都のゲストハウスで。そこではシフトがきっちり決まっていて、そこそこ忙しくて。」

「でも、ここは、いい意味でいてもいなくても良いというか。好きにしてていいよ、って言ってくれるんです。そう言われると、なんか戸惑ってしまって。」

「萩が歴史のある街だということはなんとなく知っているけれど、そこまで歴史に詳しいわけではなくて、とりあえず街を散歩しながらのんびり過ごしています。」

ーーー良いですね〜。

 

 

「行き先を決めることなく、行った先でたまたま見つけた面白いものや綺麗なものを見つけて楽しむのが良いですよね。」

「見てくださいよこれ、萩の学生服屋さんの看板、イラストが高橋留美子っぽくないですか。あとこれ、幕末の白塗りの壁が綺麗だし、大正レトロ的な漢字フォントの看板も。」

ーーーうわー旅の醍醐味ですね。その感性、どうか無くさずにいてください。ぜひ大事になすってください(なんでも鑑定団風)。

 

 

「大学の友達、旅行と言っても定番の温泉地・観光地に行くとか、ジャニーズの遠征に行くとか、そういうのが多くて。あんまり馴染めなくて。それで、ゲストハウスに行ったら何か新しい仲間みたいな人やものに出会えないかなって思って。実際、京都のゲストアウスでのヘルパーも楽しくて。それで今回、このゲストハウスを見つけて飛び込んでみたんです。」

「ここ、萩は結構XX(東北の某県)に似ていて、なんか落ち着くんです。飛び込みで来たに等しくて、縁もゆかりもない土地なのに、バスセンターで高速バスを降りた途端、あれっ地元かな、って思えたくらい、なんか懐かしくて。」

ーーーXXなんだ、自分もYYの出身です。萩もそうだけど、日本海側って謎の同じ雰囲気がありますよね。日本海側なら大体どこに行ってもほっとします。それで言ったら松江も良かったです、ぜひ帰りに寄ってみてほしいです。

 

 

「私、魚介類の中でイカが一番好きなんです。萩に行くよって周りに言ったら、イカが美味しいよって教えてくれて嬉しかったし、うわーラッキーじゃん!って。でも捌き方わからなくて、まだ食べてなくて。だから今日こうやって、なんかイカをご馳走になれて、とても嬉しいです。まさかこんな形で食べられるとは思ってなくて。しかもちゃんと美味しいですね、ありがとうございます。」

ーーーそれは良かったです。YouTubeで捌き方載ってるからぜひやってみてくださいませ。

 

 

「昨日は大学4年生のお客さんが来てくださっていて、少しお話ししたんですけど、就活が終わって色々と良い機会だということで、地元から何日もかけて18きっぷを使って一人で萩までいらしたらしくて。」

「で、一人旅って寂しいらしいんです。いつから、って聞いたら、初日からすでに、って。」

「でも、私も少し違うかもだけど、ちょっとわかるんです。何か嬉しいことがあったり、良いものを見つけたりしたら、それを誰かに伝えたくなる。そういう時に一人だと、なんか寂しくなっちゃうんです。」

「でも、それを伝えたくなる相手は誰でも良いわけではない、というのが難しくて。周りの友達はそこには当てはまらなくて。みんないい人ではあるんですが。だから、こういうゲストハウスに来れば、そういう新しい友達ができるかも、って。」

ーーー19歳ですでにそこまでたどり着いているの、すごいです。発想も行動力もすごいです。当時の自分には、東京に出るという考えしかなかったので。

「旅行といっても、各自の好みがもちろん違うので、なかなか難しくて。何が好きか、何を見たいか、お金は、体力は...。少し違うかもしれないですが、そういう意味では一緒に旅行できるような気が合う友達がほしいとも言えるかもです。そういう人は、どこにいるんだろう、って。」

ーーー難しいですよね。老婆心ですが、自分の今までの経験上、そういう人は基本的には見つからないものであって、見つかったらラッキー、という種類の存在です。めげずにいろんな人と話をする中で少しずつそういう人を掘り出していく感じかなと。あと、大学入学時と卒業時で好みが結構変化したりもするので、最初は合わないと思った友達でも、いつの間にか仲良くなっていたりしたなあって今になって思います。そういう意味でも、なんというか粛々とやっていくしかないんだろうなという感じです。

ーーーあと、極端な話、どんなに気が合う友達や家族だったとしても、同じものを見た時に自分と全く同じ感情になることはないと思っていて。そこには究極の孤独があると思います。それはなんか、そういうものだと思って、受け入れるしかないのかな、って。

 

 

3時間くらい話していた。印象的だった部分を思い出しながら書いてみた。

 

 

いいな、と思えるものが、大事にしたいものが、とても似ている感じがした。自分があと5歳若かったらSNSのアカウントを教えるとか、なんかしらで繋がりたい、今後もたまに会って話したりしたい、とも思った。でも、だからと言ってここで繋がってしまうのは、なんか違う気がした。一瞬のきらめきでは、ない。

 

 

風景の一部でありたいし、他人の、一瞬のきらめきでありたい。気がした。

 

 

風景の中で一瞬のきらめきになっているのなら、それはとても幸せなことだな、と思う。街を歩いていて見つけた面白いものや綺麗なものは、写真に撮ったり持ち帰ったりすると色を失ってしまっていたりする。その場固有の文脈に置かれて初めて、きらめきを生み出す。逆にだからこそ、その場固有の文脈に置かれて大いなる世界の一部になって、そうして相手に良かったなと思ってもらえることは、とても素敵なことだと思う。そして、風景として振る舞うということ、一瞬のきらめきとして振る舞うということ、それが道のもとに生きるということなのだろうと思う。

 

 

それと同時にね、こういう人たちが、感性を失わずに自分らしくのびのびと生きていける社会であってほしいとぼんやり思う。思うだけで、どうすればいいのかはわからないし、自分にできることはあるのかはわからないけれど、できるのであればその手伝いがしたい。

加えて、自分も含めた地方出身者がどの土地を選んで生きていくか、将来どこで暮らすのか、となった時に、今回のこの方の移動というのはとても面白く、参考になる。得てして東京か地元か、という2択になりがちだけれども、レッドオーシャンブルーオーシャンかは自分次第ではないかとも思うし、そもそも地元ってブルーオーシャンなのか、などいろいろと疑問点はある。自分と親和性の高い居心地がいい環境というのはどこにあるのかを考える上で、東京か地元か、という2択を視野狭窄的に、強迫的に検討してしまいがちだけれども、実際には世界はずっと広くて、ただ単に自分が知らないだけの選択肢がたぶん無数にある。もちろん手を広げすぎて選択肢が増えすぎて逆に途方に暮れてしまうこともあるかもしれないが、それは豊かであるための必要経費として受け止めていくことが大切であって、貧しい2択を前にして悩むことの方がずっと虚しいでしょうと、その後東京に戻るまでずっと頭の片隅で考えていた。苦しいことはつらいことかもしれないが、豊かであるための必要経費、その支払いに耐える強さが欲しい。

 

 

 

 

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2023年9月某日

 

 

京都の水族館で、生きているヤマメを久しぶりに見た。

 

 

斑点の模様が綺麗な美しい川魚で、渓流釣りや釣り堀に行ったことがあれば聞いたり食べたりしたことがあるかもしれない。成魚はだいたいアユと同じくらいのサイズというか、成人男性が手のひらを目一杯広げた時の親指の先から小指の先までくらいのサイズである。たしかそんな感じ。

 

 

 

 

そのヤマメであるが、分類学上はサケ目サケ科に属する。

 

 

サケと言えば、川で生まれ海に降って行き大きく成長したのち、生まれた川に秋に戻ってきて産卵して一生を終える魚である。産卵期のサケはヒトやクマの恰好の獲物である。

ではヤマメはどうかというと、北日本の山奥の綺麗な川で生まれ、基本的には一生の間ずっとその川で過ごす。だがヤマメの中にはサケと同様、海に出て行き大きくなったのち、生まれた川に戻ってくるものがいる。これをサクラマスと呼んでいる。

これ↑を見るともはやヤマメとは別の魚で、ほぼサケじゃん、と思う。川を降って海へ向かう途中で体の斑点模様が徐々に消え、体表が全て銀色に変化し(スモルト化)、海で50センチ以上にまで大きく成長する。かっこいい。そして産卵のために川に戻ってくる際には体中が婚姻色としてピンクに変化し、口先が大きく湾曲する。ますます、サケである。

 

 

ただ、全てのヤマメがこのように川を降ることはないようであって、どの個体が川に残りどの個体が海へ出るのか、などわかっていないことがまだまだ多い。ただし近縁種についての研究によれば、秋のタイミングで一定以上のサイズまで成長できた個体が海に出るようになる可能性があるとのことである。

www.kobe-u.ac.jp

 

 

ヤマメは山奥の上流域に住んでおり、幼魚時代を乗り切れば暮らしている川においてヤマメより大きな魚はほとんどいなくなり、生態系的には川においてほぼ最上位に存在することになる。誰かに食べられてしまうことも少なく、鳥やクマに襲われることがあるかもしれないが、海と比べると危険度は遥かに小さい。ただし、体長はよくて30cmといったところであり、繁殖期には川に帰ってきたサクラマスに文字通り弾き飛ばされてしまい、最後の最後で貧乏籤を引く可能性がある。

 

 

一方、海には危険がいっぱい。ただしエサもいっぱいで、生き延びれば将来安泰。若いうちの苦労は買ってでもしておけ、と言わんばかりのストロングガッツスタイル。サクラマスはハイリスクハイリターンなライフサイクルと言えそう。川に帰ってくれば最強であり、間違いなく世代を次に残せる。川に帰ってくる直前まで生き残るのが大変ではあるが。戦闘民族的なマインドが必要。

 

 

ヤマメでもサクラマスでもない何かって存在しないんだろうか、ぼんやり考えた。

 

 

 

 

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2023年11月某日

 

 

サクラマス、厳しい。心身がすり減り始めて、進路選択を後悔し始めた。

 

 

面白いこともたくさんありそうだし食いっぱぐれなさそうだと思って海に出てみたが、昼は表層で、夜は海底で素早く大量にエサを探すことを命じられた。面白がったり、立ち止まって味わったりする暇はなかった。大学院という川から出てきたばかりで塩分調節がうまくいかないのか、目から謎の水分が無意識に出てくることもあった。その中で、自分は身体をどうやったら大きくできるかには興味がなかったらしいということに気づいた。ただ単にエサの乏しい川にいて、隣の芝が青く見えていただけだった。それよりも、素直で正直でいること、自他の知的好奇心を満たすこと、できないことができるようになって世界の見え方が変わっていくこと、のほうが自分にとってはずっと大事だったということがわかった。そしてそれは、海では叶わないっぽいということもわかってきた。川にいた方が、トータルではキツくとも、そのわずかなきらめきを捕まえることができるのではないか、という気になってきた。それにしても、海って人にいい顔をするのが上手で、物質的には不足はなくて、でも気づかれないように引き摺り込んで他の魚に食わせようとしてくる、そんなところだな、と思うようになってしまった。注文の多い料理店。前は本気で金継ぎ屋さんだと思っていたのに。確かにそういう一面もあるかもしれないけれど。自分に都合のいいところばかり見て、肝心な芯のところを見るのが下手になったかも。

 

 

でも、川にいると食えなくなるどころか水すら干上がって呼吸ができなくなることすらあったとも聞いていて、それはそれでとても不安に感じたのも確かで、じゃあやっぱりどうするんだという。海に出てみよう、と決めるまでもかなり悩んで考えたし、あれはあれできちんと必要なプロセスだったと今でも実際に思う。

 

 

そしてそもそも、海だとか川だとか、安直な2択で苦しんでいるような、そんな気がする。納得のいくすみか、実在するかもわからないどこかがきっとあるはずだと、心のどこかで信じている自分がいる。でも、あるものが存在しないことを言い切ることは、あるものが存在すると示すことよりも難しくて、寿命が無限なら全部体当たりして潰していけばいいけれど、そんなことはできなくて、どうしたらいいかわからない。

 

 

 

 

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2023年12月某日

 

 

わからないことが増えてしまって、抱えきれなくなり、実家に帰ってきた。実家でもできる仕事しかないタイミングで、よかった。

 

 

父が職場で、イクラをもらって帰ってきた。職場のすぐ近くの川で獲れたサケから筋子を取り出して、イクラにほぐしたのだという。Googleマップでその川を見てみたのだけれど、かなり小さかった。こんなところにサケが来たら、元々住んでいた魚はひとたまりもないだろうなと思いつつ、でも遡上したサケは川でエサを食べないしな、などとも思った。サケ、いかついけど川においては産卵特化型で、案外哀しき存在なのかもしれない。海の恵みを身体に蓄えて、文字通り身を挺して川に持って帰ってきてくれる存在。

 

 

 

 

できたてのイクラ、BB弾より大きくてパンパンで、しょっぱすぎずちゃんと味があって、純粋に美味しかった。しっかり海を生き抜くと、それはそれでいいものができるのもまた事実なんだろうと思う。

 

 

 

 

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2023年12月某日

 

 

神保町で買った、手塚治虫の「ばるぼら」を実家にて読んでいる。

 

 



 

 

手塚治虫のスタンス、わかりやすいし、研究と芸術は親和性が高くてありがたい。

 

 

 

 

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2023年12月某日

 

 

相変わらず実家にいる。昨日は日帰り温泉に行ってみたが、単純に気持ちよくて、これからどうするのか、あまり考えることなく終わった。疲れは取れた。

 

 

今日は川が見たくなって、見に行った。いつもの冬よりは少し暖かいものの、基本的に空はどんよりしていて、現実に向き合わないといけないという気持ちになった。でもこれを書いていて、そもそも向き合わないといけないんだっけ、向き合いたいんだっけ、とも思う。どの道に進むにしても、そのために必要なことをなんかこの時間でやれるだろ、という気もしてきている。

 

 

 

 

帰ってくるたびに、あれ、ここってこんな感じだったっけ、と思うことが増えた。身体の大きさも考え方も小さい頃のそれとは異なるので、もちろん感覚の変化はあるし、記憶も変化していてもおかしくない。一方で、それを差し引いてもなお、なんでこれってこうなっているんだっけ、なんか変わったような気がする、という違和感が残ったりする。ちなみにこの川でもサケが獲れる。

 

 

 

 

結論は出ないが、なんとなく、研究に戻るのが良さそうとは若干思いつつ、結論が出ない状況に耐える力が必要だという気分で決着した。これだけを見ると、散々苦しんだ結果その程度か、という気もしてくるけれど、自分としては納得感がある。今後また材料が増えるかもしれないが、現時点ではもう十分に考えたと思う。あとはもう自分ではどうにもならない部分しか残っていないような気がする。途中まで同じ結論に辿り着きそうだったとしても、その時々の運や流れによって、結論は変わるとも思う。今回とて、上司が別の人だったらこんなことにはなっていなかった。

 

 

 

 

納得と諦観は裏表で、それこそが結論が出ない状況に耐える力を支えてくれるというか、天命を待てるように人事を尽くすしかないし、ひたすら考えるというよりは考えるための材料を集め続けるしかない、という気分になってきた。前にも似たようなことを考えていたし、螺旋階段をのぼったりおりたりしているだけなのかもしれないが、また基準点に帰って来れたということを前向きに捉えることにして、今日はもう寝る。

金継ぎの思想と、やさしい日本語

昨年秋に社会人なるものになって以降、諸々を持て余すようになり、結果、狂ったように旅行をしている。もっとも、旅行というかもはや巡検、ひとり修学旅行、ひとり林間学校…...なのだが、ともあれ今回は中国四国の一部をまわっている。

そんな中、どうしても今書いておかないといけないような気がすることがあったので、眠いが書いておく。

 

 

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今日、林原美術館を訪れた。岡山城のすぐそばにあり、ふらっと歩いて行けた。

www.hayashibara-museumofart.jp

 

当初、行くつもりがなかった。というのも名前の通り、林原という名の会社(しかも経営破綻した)が母体の美術館であり、したがって最悪なのだが「どうせ成金の道楽趣味が存分に溢れ出た金ピカ有名舶来絵画みたいなのをこれ見よがしに飾っているだけでしょ」のような印象を抱いていたからである。岡山城と県立の博物館に行って終わりにするつもりだった。

 

しかし、これは完全にこちらの勉強不足であった。岡山城内の想定外に丁寧かつ知的な展示施設ーーー

(これも本当に素晴らしかった。磯田先生という研究者、昔BSの歴史番組によく出ていて、解説や解釈がよく練られていてとても面白かったのだが、その先生が特別監修かなんかで城内の展示施設の構想設計に関わっているようだった。先生は地元が岡山市であり、かなりの気合いを感じた。室町時代の終わりから、岡山というまちがどのようにしてできてきたのか、統治者たる大名の変遷とともに理解できる仕組みになっていた。本筋から逸れるのでここでやめておく)

ーーーの中で、「林原美術館岡山藩主池田家の伝来品を多数引き受けた」「美術館といっても専ら刀剣や襖絵のような古美術を得意としている」という説明を読み、あれ、違うかも、と思って行くことにした。ただ、訪ねてみると、常設展はなく、テーマを決めて企画展をちょこちょこやっている、という感じで、池田家秘蔵のオモロいものを一度に大量に見れるわけではなさそう。

 

ということで、結局どうなんだ、と思いつつ、企画展へ。

現在私たちが鑑賞している美術品は、それぞれの時代の所有者が使用目的に合わせて手をかけ、修理して大切に現在まで伝えられてきました。それはまさにサスティナブル、そう今注目されているSDGsの「使う人の責任で、物を大切にする」ことに他なりません。本展ではこうして伝えられた刀剣や屏風、海外で修理されながら使われた日本の漆芸品などの美術品をご覧いただき、あわせて林原美術館が貴重な文化財を後世に伝えるために修理を行った作品もご紹介いたします。

www.hayashibara-museumofart.jp

 

うお、SDGs。もういいっすよ。

 

となりかけたのだが、改めて心を無にして集中し入場。

 

一番初めの展示品のわきに、やさしい日本語、についての説明がある。

「日本に住んだり日本を訪れたりする外国人が増えてきている中で、本企画展では、多言語化や翻訳のみに頼るのではなく、解説の脇にやさしい日本語ver.の解説を併記するという提案をしたい。」

という趣旨らしい。確かに、日本語を勉強する外国人も増えてきたし、かんたんな日本語での説明文はあるといいかもしれない。

 

なお、やさしい日本語については、東京都のページがわかりやすい。

「やさしい日本語」とは、普通の日本語よりも簡単で、外国人にもわかりやすい日本語のことです。

1995年1月の阪神・淡路大震災では、日本人だけでなく日本にいた多くの外国人も被害を受けました。その中には、日本語も英語も十分に理解できず必要な情報を受け取ることができない人もいました。

そこで、そうした人達が災害発生時に適切な行動をとれるように考え出されたのが「やさしい日本語」の始まりです。そして、「やさしい日本語」は、災害時のみならず平時における外国人への情報提供手段としても研究され、行政情報や生活情報、毎日のニュース発信など、全国的に様々な分野で取組が広がっています。

世界には、多くの言語があります。すべての外国人に対して母語で情報を伝えることが一番理想的ですが、現実的には不可能です。そこで、言語の選択という問題が生じます。

多言語対応協議会では「多言語対応の基本的な考え方」を2014年に定め、「日本語+英語及びピクトグラムによる対応を基本としつつ、需要、地域特性、視認性などを考慮し、必要に応じて、中国語・韓国語、更にはその他の言語も含めて多言語化を実現」とし、取組を進めています。

しかし、言語の中でも難易度があるため、とりわけ、多くの外国人が理解できる日本語においては、できるだけわかりやすい情報発信(「やさしい日本語」)が求められています。

今、期待を集めている「機械翻訳」においても、いったん分かりやすい日本語に直してから外国語に訳した方が意味の通る訳文になります。「やさしい日本語」は、そのような効果も期待されます。

「会話」で伝えるときだけでなく、看板等の「表示」によって伝えるときも同様です。相手に外国語で伝えたい内容は、わかりやすい言葉から考えることによって、より伝わるものとなります。

そのように「やさしい日本語」を基本に置くことで、正しい外国語の表現にもつながっていきます。

「やさしい日本語」について | 2020年オリンピック・パラリンピック大会に向けた 多言語対応協議会ポータルサイト

 

いつものことだが前置きが長い。でも必要だと思うから書いている。すみません。

 

 

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企画展のポスターにも掲載されている、キュレーターイチオシと思われる刀の前に到着。

穴が3つ空いているところが持ち手の部品がハマるところで、その右が刀身。なのだが、その根もと(握った時に手のすぐ上に来るあたり)に、不動明王が彫り込んである。

 

刀は、人を殺めるために使う物であり、同時に自分を守るために使う物でもある。したがって、不要なものは極限まで排除し、文字通り命を預けることになる。しかし、不動明王は残されている。とすると、この刀にとって、刀鍛冶にとって、所有者にとって、不動明王は必要な存在だということになる。不動明王にその炎で全てを焼き払ってもらって、煩悩を断ち、目の前の生き死にのみに集中する必要がある。不動明王なりのご加護を纏いたいのである。

 

しかし、上の写真でもわかるかもしれないが、刀に彫られた模様を見て、精緻な不動明王が彫られているなぁ、とはならない。輪郭がなんとなくわかる程度である。もっとも、作られた当初はもっと不動明王らしかったかもしれない。だが、刀を刀として使い続けるためには斬れ味を維持すべく磨き続ける必要がある。磨くことで、刀は斬れ味を取り戻し、擦り減る。不動明王も、擦り減る。

 

通常ver.の解説文では、摩耗したが微かに最低限残されている不動明王の模様を「物を大事にする心」としていた。でも、うーんまあ確かにそうなんだけど、しっくり来ない。どちらかと言えば、「刀を刀として、道具としてきちんと使い続けるためのメンテナンスをすること」と、「不動明王のご加護が消えないようにすること」の、両立の難しさ、苦悩、葛藤などなどを、感じる。どう乗り越えるのか、という部分が気になる。本当に物を大事にするのであれば、メンテナンスも必要だし、不動明王も残さないといけない。

 

それで、やさしい日本語ver.を見てみる。最後の一文は、

「この刀は 神様が 消えて無くならないように 大切に 磨きました。」

となっている。

 

思わず、涙が出てしまった。いい大人だけど。

 

こんな、シンプルな言葉が、こんなに胸を打つことがあるだろうか、こちらの直感を言い当てることがあるだろうか。「物を大事にする心」というワードは、やさしい日本語ver.には登場しない。

「消えて無くならないように」とはあるが、事実としては現に不動明王の模様は消えかかっている。相反する現象を前にして、どちらかしか救えない状況で、では人は、どう生きるのか。人を殺したくはないが、目の前の相手を殺さないと自分が、家族が殺される、そのために刀を使ってどう生きるのか、というのと同じである。

不動明王の模様は薄くなるが、それでも「大切に磨く」ことが、大事なのである。削れて、なくなってしまうかもしれないけれど、でも大切に磨けばきっと、不動明王を大切に思う心はなくならない。ここに、磨き手と不動明王のあいだに、ある種の祈りとあたたかな赦しがあると、自然と思われた。

 

これが、やさしい日本語、である。

 

 

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続いて、こちら。能装束。(紅白段桜花文摺箔)

もとはツートンというか、片身替りといって半身が白で半身が紅のデザインの小袖であった。それを能装束に作り換えたもの、とのことである。作り換えた際に、胸より下の部分をたがいちがいに入れ替えている。着なくなったものを捨てずに再利用している上に、うまく使って新たないいものを作り出している、とのこと。たしかに。

 

では、これもやさしい日本語ver.ではどうなっているかというと、「姫君が着なくなった着物を斬新なデザインで作りかえました」という流れに引き続いて、最後の一文は、

「ぶたいでは その方が きれいに見えます。」

だった。

 

これもかなりやられた。

 

もはや事細かに書くのはやめるけれど、何かとても純粋な、いいものを作りたいという思いのようなものを感じた。加えて、生まれ変わった着物が能舞台のうえでいきいきと、凛としているシーンがわーっと浮かんできた。これは、実物を見ないとわからない気がする。すみません。

 

 

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斬新なカッコいいものをゼロから生み出して世の中を変えていくのはもちろん素晴らしい。でも、「今すでにこの世に存在している素晴らしいもの」の持つ価値を、じゅうぶんに発揮し続けさせることも、また等しく重要だなと思う。

 

上では触れなかったが、展示品には金継ぎされたお皿もあった。いくら絵柄が素敵でも、割れてしまったらお皿としての実用性はなくなってしまう。それを少し直すことで、また元のように、でも少し前とは違うかたちで、また新しく、かつ引き続きやっていくことができる。刀と不動明王に関しては、それがとても難しかったが道を見つけたということ。能装束に関しては、大幅に作り換えることで新しいとてもいいものができたということ。

 

今いる会社にも、そういう思想があるような気がする。というか、あると思ったから説明会に行き、受けた。研究者を目指す中で、一流の研究者たちがパパたるお国のお偉いさんたちから新奇性ばかりを求められ、社会を変革していくことばかりを求められているのを嫌というほど見た。でも、新発見や革命だけが全てじゃないよな、とずっとモヤモヤしていた。そんな中で今の会社に出会って、こっちかもしれないと思った。

 

一般論として、いくらいい技術や飯の種があり地域の雇用の受け皿であっても、赤字や不正が頻発するようではやがて立ち行かなくなる。そういう会社が立ち直っていくためのお手伝いを一緒に苦しみながらやっていく、ということ。そして、立ち直ったらまた新しいことができるし、もちろん引き続き以前の価値を発揮し続けることもできる。うちは金継ぎの会社だったんだな、自分は金継ぎがしたかったんだな、などと思った。隙自語。

 

 

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最後に、やさしい日本語について。

たぶん、やさしいという表記なのは、優しくも易しくもあるから。そして、テクニックやエゴを振り回して、表現を可能な限り着飾らせるよりも、相手のことを思いやってできるだけわかりやすくするという過程を踏む方が、結果的に表現が洗練されて胸を打つもの、真ん中をぶち抜くものが生まれるのではないか、ということをもっとよく考えていきたいなと、つくづく感じた。外国人うんぬんではなく、やさしさは、シンプルに強い。

 

 

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ちなみにこの企画展、11月までやっている。逆に言えば、11月で終わってしまう。

たくさんの人に来てもらって、何かを感じてもらえたらいいな、と思う。

 

 

桜色というものはあるけれどない。しかし確かに桜色というものは、ある。

 

ピンクとも白とも灰色とも違うが、では何色なのかと言われると、よくわからない。何色で描いたとしても、桜の絶対性とは一致しない。他方で、空があってはじめて桜がわかる、すなわちつい先日、「桜をピンクで描くのは雑魚がやること、なるべく白で描くのがいいし、それよりもむしろ背景や周りの色を気にしろ」みたいなことを言っているひとを見かけたが、それに従っていては相対的なものの見方から自由になることはできない。もちろん、夜空を背景とした方がきれいとか、そういう小細工はある程度は通用するし効力のあるものではある。しかし、これでは技術者がいつものように典型的な罠に陥っているだけである。道への到達、絶対的な桜のもとに帰ろうと思うのであれば、俺たちは心で桜と向き合う、やることはそれだけである。心で向き合うと、何色とも言えないが強いて言えば桜色、という色の花を見上げていることに気づく。桜色というものを知りたい時、ピンクとか白とかそう云う固定的なところから離れて周りとの差分を見ようとすること、は確かに道への到達への第一歩ではある。しかし、それだけでは桜というものの絶対性に到達することはできない。桜色というものそのものを、ありのまま、全身で受け止めなければいけない。ここにおいて、写真は敗北する。以降、この記事に貼り付けられている写真たちは、敗北の証である。ただし、スペーサーとしては一定程度便利であるのもまた事実である。

 

 

猫が道を横切る。シャッターは間に合わない。

 

 

不倫をしているひとと飲んできた。彼女は研究室の職員さん。離婚したあと、女子高生時代の既婚者恩師と現在進行形で不倫をしている。それは確かに有り体に言えば不倫ではある。相手である恩師は家庭が崩壊しており居場所がないとはいえ、有事の際に家族に何かしらの迷惑がかからないかと言えばNOである。法律とか慣習とか常識とか、それらの物差しのもとで眺めれば確かに不倫ではある。ただ、その2人のあいだにしかないものが存在する。2人の間で認識が一致しているかは怪しいし、もちろん部外者である自分にもわからないが、でも何かが存在している。彼女と相手のことだけを空っぽな心で眺めると、そこには絶対的な何かがある。少なくとも彼らはその関係の中では救われているらしい。無論、救われていなくても、それはそれでその関係性がそこにある。いずれにせよ、それを絶対的に理解することは当事者ですら難しく、況や自分をや、という次第である。

 

 

向こうから猫が帰ってきた。

 

 

一般に、このようなことを理解することは難しいが、そもそも対象がなんであれ理解なんてものは不可能で、理解したいという単なる願望がぼんやりと頭を支配しているに過ぎないのではないかとさえ思う。我々ができるのは、ただ現象の前に帰参して、くもりなき心で眺め、あるがままをあるがままに措いておくことのみであるように思う。

 

 

話は変わって、後輩の女の子がこの春から異動になる。以降、彼女2と呼ぶことにする。彼女2はいわゆる研究室内カップルというものをやっている。相手の男は自分の同期だが、彼は異動しないので2人はいわゆる遠距離恋愛というやつをやることになる。傍目から見れば2人ともたいそう自立しており、周りに迷惑もかけず問題なく日々を送っている。安定したカップルに見える。しかし、彼女2は遠距離恋愛が耐えられないのだと飲み会において研究室職員の彼女にこぼしたという。異動先で相手を作ってこっそり、ということになるような気がするのだという。めちゃうまくいっていたように見えるし、自分にはわからない。彼らは婚姻関係にはないが、でもこれもまあ不倫ということになるのかもしれない。そういう欲が強くて品がない、ということになるのかもしれない。同期の男もかわいそうである。愛情とか絆って、そんな一時の欲求では打ち破れないものだろうと信じている身からするとわからない。わからないがしかし、これもまた、桜色がなんであるのかを中途半端に知ろうとするのと同じことなのかもしれない。彼女2の絶対性に到達しようとする道中においても、やはり頭や心がかなり邪魔をしているように思う。

 

 

巷に溢れる物差しを取り出して眺めるといろんなことが多分ぐにゃぐにゃに曲がっているように見えるのだろうが、この桜の木の下でぼんやりと桜を見上げていると、曲がっているとか、まっすぐとか、そのような言葉が意味をなさなくなってくる。そこには、桜があるだけである。もっと言えば、桜というのも我々がそれを他のものと区別するためにつけた呼び名であり、実際にはただそこに何かがあり、自分はそれに現在惹かれている、ということ以上のことは言えないのである。

 

 

AM00:58。腰掛けているガードレールが冷たくなくなってきたな、と思っていたところに、お巡りさんが自転車でやって来た。こんにちは、と言われたので、お疲れ様です、きれいですね、と返した。そうしたら少し間を置いて、きれいですよね、と返してくれた。とても嬉しかった。じゃ、と言ってお巡りさんは自転車に乗って去って行った。お巡りさんの後方からは、歌いながらふらふら歩いてくるおじさんが来ていたが、お巡りさんはそちらとは反対の方に漕ぎ出して行って、相変わらず桜はきれいで、少しだけ涙が出た。この桜がここにある限りは今の場所から引っ越さずにいようかな、と思いつつ、ガードレールから立ち上がった。

おもしろい通勤通学

今の下宿に引っ越してきてから4年が経とうとしている。

 

 

越してきたばかりの頃はどのルートで行くと最短なのかを探るべく、毎日違う道を通って通学していた。基本的に毎日通学した。というのも、授業や実習、サークルといった大学での用事は開始時間が決められているしそれらの日程の振替は基本的に存在しないからである。従って、体調を崩さない限りはなんだかんだで毎日通学した。1ヶ月もしないうちに自分なりの最短通学ルートが定まり、固定化された。

 

 

その2年後、学部を卒業し、大学院に入院した。

 

 

「入院、おめでとう。」これは大学3年生のはじめ、学科の講堂で大学院生と一緒に学科配属の共通ガイダンスを受けた際に当時の学科長が壇上にて発した言葉だ。そうか、彼らは入院するのか、と学部生の自分は不思議な気持ちになった。あたかもどこか悪いところでもあるみたいじゃないか、とも思ったが、大学院への進学は18歳人口の5.5%に留まっており、短期大学や2年制の専門学校を卒業した者では概ね20歳以上で就労し、一定の稼得能力がある者がいることを踏まえれば、こうした者とのバランスを考える必要があること等の理由から、このような取扱いをしているものです。

 

 

はたして今度は自分が入院することとなったのだが、時は2020年4月、流行り病のせいでそのようなーーーどでかい講堂に大勢の教職員・学生を一網打尽に詰め込むーーースタイルのガイダンスは当然中止となった。講義は全てオンラインで行われることになった。また自分が与えられた研究テーマも、向こう数ヶ月は下宿からリモートで行うことのできるものとなっていた。ちなみに研究テーマに関しては疫病が流行る前に准教授が作成し採択された競争的研究資金の申請書のシナリオ通りであり、疫病が流行っていなかったとしても多かれ少なかれ同じ状況にはなっていたと思われる。

 

 

ともあれ、それまでとは異なり、定時的な通学を行う必要がなくなった。研究室への通勤通学禁止は3ヶ月くらいで解除されたと記憶しているが、コアタイムもなく、やはり「決められた時間に大学に行って何かをする」という必要がなくなった。下宿での研究に飽きたら大学に行って、大学での研究に飽きたら下宿にこもる、みたいな日々にシフトした。

 

 

いつからかはわからない、修士1年の冬だったかもしれないし、2年の春に学振を書いていた頃だったかもしれない、とにかく、どこかのタイミングから、学部時代に使っていた最短ルートが嫌いになった。この最短ルートを以下、ルート甲とする。

 

 

ルート甲は確かに距離的・時間的に最短経路で、ほぼ一直線。比較的大きな通りというか閑静な住宅地を貫く幹線なので信号は全て青の状態で通過できることが多い。自転車をmax27km/hくらいで漕いでいると11分台で大学着。という感じで、半ばタイムアタック参加者のような気持ちでの通学と相成る。

 

 

これが、なんというか、とにかく厭になってしまった。おもしろくないのである。ルート沿いに店は少しあるが、コンビニやピザチェーン、まいばすけっと等であり、興味を惹くものはない。通学におもしろいも何もないだろ、と思うかもしれないが、おもしろくないものはおもしろくない。ただ、行って、帰るだけ、みたいな気分になる。ほんで、通学がおもしろくないと、大学に行く気が失せてくる。研究がうまく行っている時は読んだ論文のことを考えたり脳内でコードの試行錯誤をしたりしているといつの間にか大学に着いていてそれはそれで良いが、そんな日は稀であり、自転車を漕ぎながら、何をしているんだろう、という気分になってくる日の方が多い。ただし、このルートが嫌いになったことと、研究が大変だったこととは、あまり関係がないように思う。うまくいっている時も後述する別ルートで通学するようになったから。また、逆に一刻も早く帰りたいという日は、迷わずこのルートを選んで帰ったりもする。それから、ルート甲の最後に鎮座する門の側にはテレビ局の職員が待ち構えていることもあり、純粋だが少し承認欲求高めな弊学の学生を捕まえては地上波に売り飛ばして見せ物にしている。これを見るのがなかなか精神的に厳しいというのも多分にある。

 

 

そしてこれもいつからかはわからないが、気づいたら、もうひとつのルートで通学するようになっていた。こちらを以下、ルート乙とする。

 

 

ルート乙は甲プラス<1km、甲プラス10分といったところで少し遠回り。実際、ゆるく曲がっていて信号も多く、何回もブレーキを握って減速・停止し、青になればまた加速しなければならない。ただ、こちらはなぜか飽きない。個人営業の飲食店や居酒屋をはじめ、輸入食品の店、ブックオフ、扱う品物の得意不得意や価格帯の異なるスーパーたち、他の駅方面へと折れる道、好きな戦国武将の名前がついた交差点名、友人の寮(現に歩いている友人を後ろから自転車で追い越したこともある)、幼稚園や学校、"だし"しか売っていない自販機など、とにかく色々ある。そして哺乳類の糞のにおいがする動物園の脇を通り、好きな公園の脇を通って、ラストスパートに坂を上って大学着。最後の坂は少々キツいが、それまでの道中で体はあったまっており、思ったほどではない。坂を上る道に折れずにそのまま進めば、実家の最寄りに直通する新幹線の通る駅やこれまたお気に入りの巨大・ザ・鮮魚スーパーなどがある。魚を買ってから大学に行くだとか、なんなら魚だけ買って大学に寄らずに帰ることもできる。そもそも魚を買わず、水族館に行くような気持ちでただ魚を眺めて、それから大学に行くのもまた良い。

 

 

なぜか飽きないとは上で書いたが、まあとにかく雑多でオッと思うものがルート乙沿いには多いから、ということなのだろう。自転車を漕いでいると、その性質上周りをよく見て運転することになる。「安全かつ最速」で目的地に到達することを目的とするのであれば、下宿-大学間にて受け取る時間的/空間的な"余計な"情報の量としてはルート甲の方が少なく、命に関わるような咄嗟の状況変化への対応に必要十分な量であり、良い。しかしまあ、代わり映えのしない景色の中をただただ漕ぐというのを日々繰り返すのはなかなかに厭になっちゃうものなのであった。

 

 

実際にそうするかどうかは置いておいて、通っていておもしろそうな店があれば一旦自転車を停めて入ってみよう、別に大学に行くのが少し遅れても問題ない、という余白、可能性、が残されていることが自分にとってはおもしろく、またある種の安心感でもあるのだなという。これはなんか「画一的で効率的な生活を志向し競争社会・資本主義社会で勝ち抜いていこうとする、というのは限界があるし息苦しい」みたいなアレとちょっと似ているかもしれないけど、でもそんな安易な一般論に還元されてしまったらちょっと嫌ではある。(自分の場合は「正しくなくても良い」ということではなくて、どっちかと言えばそもそも「正しくなくても良い」と考える時点で正しさにとらわれているよね、みたいな感じ。そんなことではなくて、正しいとか正しくないとかを考えるのはナンセンスだというか、世の中におもしろいと思えるものは無数にあるし、気分もその時々によって異なるから、その時に一番おもしろさを感じられるように動きたいな、という。そういう意味ではその時の自分の気分やそれが下す判断が一番正しくあってほしい、という願いのあらわれである可能性もあり、したがって何らかの正しさを信じているという点で結局同根なのかもしれないが。)

 

 

となると、将来働くとなった時にはなるべくおもしろい通勤がしたい。電車通勤はかつてはある種の戦いだったかもしれないが、今では(座ることさえできるのであれば)本を読んだり携帯端末で劇を観たりといったことができるということを考慮すれば案外悪くないのかもしれない。一方で、激務に追われているとそんなことを考える余裕すらないぞ、というお叱りをいただくかもしれない。でもそういう時こそあえておもしろい通勤がしたいな、などとも思う。そもそも、毎日同じ路線で通勤すること自体、厭になっちゃうかもしれない。自転車で通勤する日もほしい。

 

 

などということをぐるぐると考えながらルート乙を通って鮮魚スーパーに向かい、年末年始の買い物をしました。地元の鮭は少し高かったけど、帰省できないぶん何か地元のものを食べたい(あとそもそもとても美味しい)と思い、奮発して買いました。ルート乙にはもう少しお世話になろうと思います。ではまた。

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カメラロールを遡ったら、2020年のちょうど今日、大晦日に自転車を停めてルート乙の写真を撮っていた。思ったより前から気に入っていたのかもしれない。

書店でもらったブックカバーが捨てられない

最近、こんなご時勢ということもあって、部屋の片付けをしている。

調味料、服、プリントなどの整理を終え、いよいよ本棚の整理に取り掛かったのだけれど、あることに気づいた。

どの本にも書店でもらったブックカバーがかかっていて、何の本なのか一目でわからない。

 

 

 

本を買うとき、毎回ブックカバーをもらうことが自分の中で習慣というか義務のようなものになっている。

きっかけはおそらく、手汗対策 ―――見苦しい話で申し訳ないが、そこそこ手汗をかくので、手汗で元のカバーをふやかしたくない――― の一環だったと思う。しかし、中高生時代ももうそろそろ遠い存在となってきており、代謝も落ちている。もう手汗はそんなに出ない。現在もなおブックカバーをもらい続けるモチベーションは、別のところにある。

 

ひとつは、単純にデザインが好きだということ。

もうひとつは、ブックカバーが、その本をお迎えしたときの自分を思い出させてくれる、ということ。

 

 

ひとつめ、デザインについて。

冗長だし、内容的にはこの記事で書きたかったことの2割くらいのものなので、さらっと読み飛ばしてほしい。

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これらは大学の書籍部のカバーだ。上のものは1・2年生のキャンパスの書籍部で、下のものは3・4年生以降のキャンパスの書籍部で、それぞれもらえる。

上のものには何やらいろいろな言語でよくわからないことが書いてあるようだが、これらはすべて、

日本国憲法第9条【戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を~(以下略)

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の~(以下略)

を訳したものであるという。なぜブックカバーに第9条をもってこようと思ったのか、また、なぜそれを13か国語で訳そうと思ったのか。考えれば考えるほどじわじわ来るし、このカバーをぱっと見て「あ、日本国憲法第9条だ!」と思う人は書籍部でブックカバーをもらったことのあるひとくらいなのではないか。秘密を知る者どうしを引き合わせる、暗号のような不思議なカバー。でもその秘密は明後日の方向にあるもので、知ったからと言ってどうなるものでもない、どこかおかしなもの。

 

一方、下のものは上のものとは打って変わって、素朴なデザインが採用されている。ネコ型人間とでも呼ぶべきクリーチャーたちが宇宙空間で遊んでいる。かわいい。

書籍部は、

「大学に入学したての頃は勉強熱心で正義感にあふれ、硬派として生きていくことを心に決めていたが、3年生にもなると世間を知り、自身の限界を知り、時には堕落しながらも気楽にのほほんと生きるようになる」

という大学生あるあるをブックカバーのデザイン変遷でそれとなく表現しているのだろう。やりおる。

 

 

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これは地元の書店のブックカバー。再生紙のクリーム色にビリジアンがよく映えている。単純化された本の背の丸み具合も大好きで、いったい誰が手掛けたのか知りたくなるほどストライクなデザイン。三省堂紀伊国屋丸善などの大手書店はよく見習ってもらいたいものだ。今度帰省したらここでたくさん本を買おう。

 

 

 

話が長くなった。

もうひとつ、こちらが本題なのだけれど、ブックカバーが、その本をお迎えしたときの自分を思い出させてくれる、ということ。

例えば先ほどのカバーたちには、

「大学2年生のときに」「書籍部で」買った

「大学3年生のときに」「キャンパス移動後の書籍部で」買った

「大学進学の際に」「地元の書店で(正確には父親の本棚から)」買った(もらった)

などの、「いつ」「どこで」その本と出会ったのか、という情報が詰まっている。時期によって行動範囲が異なり、それゆえ頻繁に利用していた書店が異なる、というわけでこの手法が機能している。おおまかにこの「いつ」「どこで」がわかる程度だけれど、中にはそこから広げて、当時どんな気持ちでこの本を手に取ったのか、どの本の読後に連鎖して読もうと思ったのか、誰から薦めてもらったのか…などの多元的なことを思い出すきっかけにもなったりする。少なくともじぶんの中ではそうである。浪人期に高校の現代文の教科書から背伸びして神保町の三省堂(予備校から歩いて行ける距離にあった)で谷崎潤一郎を買ったこと、社会学に興味があった時期と三省堂で駒ケ根市とのコラボカバーを出していた時期が被っていたこと(そしてその期間はともに短かったこと)、失恋して茫然としていたときにふと立ち寄った赤羽駅内のbookexpressで偶然目に留まってノルウェイの森を買ったこと。

たいていの本というものは大量生産されているもので、身もふたもない言い方をすればどこにでもあるものだけれど、書店のブックカバーを纏うことで、自分との関係性の中に落ちていき、ゆるぎないものになる。そういった意味で、書店のブックカバーはいわば自分の外部記憶装置のようなものであり、本と自分を繋いでくれる媒介者であり、本のもうひとつの衣装である。

 

 

 

今回、全部剥ぎ取って捨ててしまおう、そうすれば本も探しやすくなる、と思いかけたが、やっぱりやめよう。

ブックカバーは、愛おしい。

続・新幹線と私 -ばらの花 / くるり

"安心な僕らは旅に出ようぜ 思い切り泣いたり笑ったりしようぜ"

- ばらの花 / くるり

 coverd by A Cappella Group, suisai

 

 

以前の帰省の際に、新幹線の中でこんな文章を書いた。

前回は幸いにも座れたので悠長に車窓から写真を撮るなどしていたが、今回は年末の帰省ラッシュ真っ只中ということでそんな余裕はなく、満杯のデッキに立ちながらこれを書いている。みな、東京では見かけることのない実用的なコートで着膨れしながら、キャリーの上にお土産と思しき紙袋を乗せている。

 

 

 

 

 

以前書いたように、高校までの自分にとって、この新幹線は陰の北国社会から陽の表日本社会へ出るための手段であった。しかし、陽とは絶対的に陽なのか。または、永遠に陽なのか。

 

"雨降りの朝で今日も会えないや

 何となく でも少しほっとして飲み干したジンジャーエール 気が抜けて"

"愛のばら掲げて 遠回りしてまた転んで

 相づち打つよ君の弱さを探す為に"

胸をときめかせて大学に入ったものの、気づけば卒業単位が取り切れるか怪しくなっている。現実を見て色を失ったと言えば少しは聞こえはいいかもしれないが、それでもやはり入学当初の野望はどこ吹く風という感じである。「ダラダラとした講義は緩慢で急所がなくつまらない」と他人のせいにして授業を切り続けるとこうなる。でもまあ何とかなるだろう、と気楽に捉えている自分がいる。実際、何とかなるとは思う。

陽の世界とは、当たり前だがあくまでも相対的なものだった。そして、そこに甘んじて安心している自分がいる。

また、幼き自分をめいっぱいもてなして楽しませてくれた母方の表日本的祖父母であるが、当然ながら人間であり、生物であるので、歳を取り衰える。グループホームで生活し、5分おきに「今日は何曜日だったかね?」と笑顔で尋ねる祖父や、痰を詰まらせては救急搬送される祖母に、ボウリングや潮干狩りに連れて行ってくれ、などとはもうとても言えない。

陽とは、別に永遠でも何でもない。

また、私は祖父母から陽を"受け取って"いただけで、自分から何か返せていただろうか、と言われると言葉に詰まる。私の存在自体が彼らの喜びであったならまだ救われるのだが。

 

 

"最終バス乗り過ごして もう君に会えない

 あんなに近づいたのに遠くなってゆく"

かつて心躍る場所であった東京は、表日本は、過ごしてみれば今や緩慢な日常が流れる場所ととなってしまった。言葉が適切かは自信がないが、消費しきってしまった、ということだろうか。

この新幹線は、いつしか、"安心"な日常としての東京から、スーツケースに「いや待てよ、このままでいいのか」という無意識的・潜在的焦りを詰め込んで故郷の北国に逃げ帰るための存在、へと変化していた。

大学以降、自分の中で表日本-裏日本間における日常-非日常が逆転した上に、裏日本における非日常はかつての表日本が担っていたような積極的陽を受け取る場として機能するのではなく、単なる逃避先としての非日常と成り下がってしまった。

 

 

"僕らお互い弱虫すぎて 踏み込めないまま朝を迎える"

"だけどこんなに胸が痛むのは

 何の花に例えられましょう"

ばらを掲げて東京に出てきたはいいが、本当に走り切れたのか。ばらを掲げるためには、トゲのある枝を掴む必要がある。トゲと向き合うことから逃げていた、そうだよね。

"ジンジャーエール買って飲んだ

 こんな味だったっけな"

新鮮な、気の抜けていないジンジャーエールは、ちゃんと美味しい。

 

 

"安心な僕らは旅に出ようぜ

 思い切り泣いたり笑ったりしようぜ"

もう一度、表日本が非日常だった頃のことを思い出す。だらだら享受するだけではなく、ぶつかってちゃんと喜んだり悲しんだりする。もっと言えば、場所がどこかにかかわらず、日常だの非日常だのにかかわらず、対象にぶつかって心を動かせたかどうかを意識する。

 

 

グループホームで生活し、5分おきに「今日は何曜日だったかね?」と笑顔で尋ねる祖父や、痰を詰まらせては救急搬送される祖母を、今度は私が、もてなして楽しませる番である。

 

そう言えば今回の帰省、スーツケースが要らなかった。