山と川とルイ14世 前編

お久しぶりです。

”境界”と人間の話をしてみようと思います。

 

 

 

まず、突然ですが、ルイ14世のお話。

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自然国境説、というものです。ここにもあるように、領土とか国家とかの境界を、人々の言語・宗教・習慣などといった文化的な特徴ではなく、山や川などの自然的特徴をもとにして決めよう、といったものです。「あの川までは(本来)俺の領土(のはず)だから攻めるけど文句言わないでねヨロシク」というように、対外侵略のための口実にすぎない、という否定的な見方もできます。というかむしろ、否定的な口調で語られることが多い気がしています。

 

でも、山とか川とか、そういった自然国境は目に見えてやっぱりわかりやすい境目であり、人々にとって何らかの意味付けが多分になされる場所なんじゃないかなあ、というのが今回のお話です。また、だだっ広いヨーロッパの平原においては、同一平原内の一見違いのない土地に別のコミュニティが存在するかもしれませんが、日本のような比較的狭いところでは本当にそうだろうか、とちょっと思ったというお話です。といっても、かなり個人的な、ポエム的な話になるかもしれません。最後までおつきあいいただければ幸いです。

 

 

 

高3の自分は(いきなり個人的な話ですねえ)東京の大学を受験するも不合格となり、浪人することになったのですが、その際に環境を変えようということで東京に出させてもらうことになったのでした。大学生になったわけでもないのに、"東京"に出ることになったのでした。とは言え世の中はやはりお金ですから、家賃が安いからというただそれだけの理由で、埼玉県の川口市という"東京"に仮住まいをすることとなりました。川口市といっても住んでいたのは少し外れの方で、風俗店の一斉摘発後空洞化し、混沌としていたエリアです。中華系・東南アジア系外国人が当時多数流入していて、治安はまあ御察しですが、物価が低く浪人生のお財布にはありがたかったことを覚えています。ムーンライトが一箱128円でしたね。

 

仮住まいから20分くらい南の方に歩くと、荒川という大きな川にたどり着きます。

川の向こうは赤羽、つまり東京です。一方、川の北側、こっち側は埼玉です。

第一志望の大学や通っていた予備校に行くには川を渡る必要があります。一方、自分の仮住まいや自分の地元(埼玉以北の北日本のどこか)は川のこちら側にあります。

講習を取ったり模試を受けたり、あるいは上野の美術館や博物館に行ったりするときは、必ずこの川を渡ります。一方、友人たちとサッカーをしたり、勉強に疲れてあてもなく自転車でフラフラしたり、合格発表の何時間か前に落ち着かなくてたどり着いた場所は荒川のこっち側の土手です。

第一志望に合格した現在、住んでいるのは川の向こう側です。一方、もし不合格になっていたら、おそらく地元の大学に通っていたでしょうから、広義”こっち側”に住んでいたことでしょう。

 

自分にとっておそらく、荒川という川は、大学に晴れて合格し世界をぐんぐん広げていくある程度自立した自分と、高3までの自分や宙ぶらりんになっている自分とを分ける、といった意味合いをもつものです。荒川を「渡る」ことには、物理的移動のみにとどまらず、「渡ることができる」、「渡ることが許される」ということ、つまり自分の意味が移動する、ということが含まれているように感じます。荒川の土手に座って向こう側を眺める、という行為には、自分の質的変化を望むという、行為以上の意味が含まれているように思えるのです。川の向こうでしかできないこと、が確かに存在し、それに想いを馳せることなのです。

また、これは自分にとっての意味付けであり、川口駅の真ん前の高層マンションに住むサラリーマンや、板橋に住んでいる浦和レッズのファンにとっては、また別の意味付けが存在するでしょう。意味付けはひとそれぞれであるべきだろうし、実際ひとそれぞれだと思います。

 

これは別に現代に限った話でもない気もします。

江戸時代初期における豊臣秀頼、彼は父・秀吉から受け継いだ大坂の地を離れることなく生涯を閉じますが、家康は秀頼に対し当初大和郡山(現在の奈良県)への移封を提案していました。もちろん知行が激減するので家臣たちをリストラしなければならず、さらに国替えしたところで命が永遠に保障されるというわけでもありませんでしたが、少なくとも外堀を埋められ城としての機能を大幅に欠いた状態の大坂城にこもって無謀な戦いを仕掛けるよりはワンチャンスが残ったのではないかと思います。しかし、彼にとって本当に"意味"があったのは大坂城であり、大阪平野であり、生駒・金剛山地のこっち側、ということだったのでしょう。もちろん、太閤の子であるというプライドもあったでしょうが、実権はすでに失っていたと言えるので、ホンネはこれだったんじゃないかという気がしています。ともかく、彼は”生駒・金剛山地のこっち側”で最期を迎えます。

 

 

 

何か感じるところのあったあなた、身の回りの地形的な境目、を思い浮かべてみてほしいです。普段、何とも思っていなかった山や川が、実は自分の”意味”を区切るような装置として見えてくるのではないでしょうか。

また、本当は「自分の”意味”を区切る」ということについて、荒川の土手に座って浪人時代の友人と掘り下げた話がありまして、むしろこっちを書きたかったのですが長くなったので、後編として後日書き直します。