はじめに

ようこそ。

 

この場は、書籍、音楽、映画、雑感、などなど、今の自分がどんなことを考え、どんなことに興味をもっていたのか、後で見返すためのもの…?

 

じゃあわざわざブログとして世に出さずともよいではないか、日記でもつけとけ、と心の中の別の自分が騒いでおりますし、後々このブログの方向性がわからなくなることを避けたいということもありますので、少々。

 

平安時代において、日記とは他人が見る可能性のあるもの、さらに言えば他人に見せる前提のものであったそうです。

されど世は平成、日記とは自分以外の人に見せるつもりがないものなのではないでしょうか。それゆえに、書きたいことを書きたいように書く。歓喜も悲哀も罵倒もなんでも。まあ心の中の別の自分がかえってそれを統制する場合もあるでしょうが。

かく云う自分も、昨年度は日記なるものをつけておりました。毎日ではありませんが。その中には、向こう一か月の目標など完全に自分の中で完結するものもありましたが、いくつか、自分以外の人にも共有したい、と思いながら書いたものもありました。

 

自分以外の人にも共有したい、これをこのブログの原点にします。ただ、今の自分自身を知ってもらう、というよりは、今の自分の考えを知ってもらう、というニュアンスです。そもそも、「人に見られている」ということが潜在意識として存在する以上、「自分自身を知ってもらう」というのは「自分自身の理想像を知ってもらう」ということにすり替わりがちです。だから、「自分自身を知ってもらう」という方へ進むべきではない、と。それよりも、ふと思ったこと、触れてよかったコンテンツ、などを、できるだけそのまま、脈絡なく書いていきたいです。ただし、共有したいものだけ。

また、自分以外の人とは誰か、といえば、親しい一部の方々や、ネットサーフィン中に偶然通りかかった方々、でしょうか。

 

今まで、旅行記のブログ、ゲームの攻略ブログ、受験ブログ、書評ブログ、などなど、様々なブログを読んできましたが、共通する大元の感想は、「書き手は、読者を想定しており、また同時に読者に存在してほしいのだろう」というものです。ここに素直になれないブログには、読んでいて違和感を覚え、ゆがんだ印象を受けました。ですから、このブログはそこに素直でありたい。共有したいことがあり、読み手がいるからこそのブログ。じゃなかったら日記でやれ。ところで日記における読者とは未来の自分ってことですかね。

 

 

ちなみに現在2017/1/15 3:05です。この記事が常に最新であるような日時に投稿したことにしました。いつ飽きるかな。

GOLD

youtu.be

 

 

ありがとう さよなら 更に言うと愛してる

ありがとう さよなら みんな愛してる

 

 

早くも年の暮れである。後輩と解散して駅で少し買い物をした後、夜の幹線沿いを歩いて帰った。道中、bonobosというもう解散してしまったバンドの、GOLDという曲がぼんやりと頭の中を流れ始める。

 

 

*****

 

 

どこからともなく 順々に人はやってきて

恋をして 働いて 歌をうたう

 

 

人はみな(非常に大きな主語)、誰に求められたわけでもなく、勝手に東京の大学を受けて、勝手に東京に出てくる(要出典)。ほんで、夢がどうとか、社会を良くしたいとか、金持ちになりたいとか、米がまずいとか、人が多いとか、バイト入れすぎたとか、あの人が気になるとか、誰と誰が付き合ったとか別れたとか、まああーでもないこーでもないと言いながらサークルのひとびとと酒を飲んだり夜更かしをしたりする。サークル活動そのものは多くの人にとって同じ場を共有するための手段としての共通言語のようなものであって、技を極めるように部活のように取り組む人は少ない。まあでもそれで別にいいと思う。なんというかここらへんはBUMPの東京讃歌でもそんな感じだったな〜と思う。ただ一方でそういうのはもう疲れたというか、今もう一回やれと言われてもできないのも確かで、最近は木や石になりたい。まだ1番のAメロなのに早くも話が逸れそう。

 

 

そして

どこへともなく 突然に人は去ってゆき

誰かが不意に口ずさむ歌になる

 

 

今日お会いしてきた後輩様、学部時代のサークルの後輩。

 

3年くらい同じグループで活動していた。サークルの面々、基本的に首都圏出身者が半分以上で同県の人ほぼいない、みたいな中で、たまたま地元が同じ(広義)だった。おとなしいしあまり目立たないけどコツコツやってて、ちゃんと上手かった。サークル運営にも協力的で真面目で誠実だし、陰ながらみんなを支えてくれるような、ちゃんといい子だった。関わった人たちは多くはなかったかもしれないけれど、でも彼らはもれなくみな全て、後輩様の歌や人間性を讃えていた。加えて、ちょっと病気して幸薄っぽいとこもあって、みんな少しずつ気にかけていた。

 

いい子すぎるので、逆になんか大丈夫かな、と思うこともあった。なんか変なのに言い寄られて大変そうな時期もあったりした(自分も大概変なやつだが、彼らとはベクトルが違うし、そのへんはちゃんと切り分けるように気をつけていた、と思っている。後方腕組みオタク)。なんというか、自分を犠牲にしすぎずに楽しくやれていてくれたら同じグループの先輩としてはそれでいいんだけれど、そういうのってあまり外に出さないタイプの人もいて、外から見ていてもなかなか分かりにくかったりして、難しい。

 

 

すてきな場所を見つけて すてきな人に会えたら

もう 僕のことなんか 忘れてもいいよ

とっても晴れた朝が 君を呼んでるのが聞こえてるだろ?

さぁ、お別れだ

 

 

後輩様、就職のタイミングで地元に戻り、ほぼ同じタイミングで疫病が流行。広い意味で地元県は同じだけど、なんだかんだ外出自粛的なアレもあってなかなか声を掛けづらかったのもあり、薄情(?)ながらほぼほぼ連絡を取らないまま、数年が経った。そんな中、つい先日、東京のど真ん中でいつもの友人とクラフトビールを煽りながら、あの人いまどうしてるかねえみたいな話になり、懐かしくなって連絡した。で、帰省して、本日、積もる話をバッサバッサとやった。充実した生活を無事送れていて色々順調なようで、東京にいた時よりも心なしか元気そうに見えて、なんか心があったかくて、嬉しかった。

 

同時に少し、寂しかった(キモいね)。後輩様に限らずみんな、ちゃんとしたところにいれば正しいループが回って前に進んでいく。一時期は一緒に毎週活動していたしいろんな話をしていたけれど、今はもうそういうわけでもない。なので当然ではあるのだけれど、親しい人がぐんぐんと前進しているのを段々とリアルタイムでは見届けられなくなるということであり、それは嬉しくも寂しくもある。卒業式の後の担任もそうだし、もっと大袈裟に言えば、娘の結婚式における父親ってこんな感じなんだろうなと思った。まだ30にもなっていないし子どもがいるわけでもないのにね。こんな親みたいな、兄みたいな感覚を勝手に抱いている自分がキモい。

 

でもそれを昇華させた先にあるような、こういう、恋とか性愛を越えた、もっと大きなもののこと、ちゃんと大事だとも思う。忘れるとか、お別れとか歌詞にはあるけれど、そういうのは違うしもったいない。こういう気持ちになれる関係のひとつひとつが文字通り有り難くて、これからもたくさん話を聞かせてほしいなと、つくづく思う年末。でもやっぱり、今のところはまだ寂しかったりもする。

 

 

ありがとう さよなら 更に言うと愛してる

ありがとう さよなら みんな愛してる

それぞれが持ち寄る 何万通りのLife Time

君は巡り合わせを信じる?

Ah Hah?

 

 

土手がすき。けっこうちゃんと降ったみたい。

 

 

*****

 

 

なんにもない場所 僕らはそこからやってきて

恋もして 働いて 歌もうたう

そして

なんにもない場所へと 短すぎる季節を駆け抜けて

炭素と水と想い出の歌になる

 

 

2番Aメロ、ここの歌詞が本当に好き。歩いてて気分が良くなってくると、何回もここだけ繰り返して口ずさんでしまったりする。

 

人生、”帯に短し襷に長し”、ではなくもはや”帯に短し襷に短し”といった感じで絶対的に短く、自分がやりたい(と思っている/思い込まされている)こと全てをやり切ることはもう無理だなと思うようになってきた。同時に、色即是空、空即是色であることを鑑みれば、

ーーーすなわち、この世にはもともと何もなくて、ただ、関係性といったものだけが積み上がっているだけで、その関係性の揺らぎがいろんなものを生み出して、その成果物の中には固定的に、絶対的なように見えるものもあるにすぎないといったことを見つめてあげればーーー

全てをやる必要もないというか、自分の思い込みのようなものがどんどんほぐれていくので、全てを懸けてやるようなものごとの数というのは実はそんなに多くないのかもね、というか。

 

 

In the Golden Days 何もかも輝くようだろう

In the Golden Days 悲しむことなど何もないよ

忘れた物を取りに戻るように

またいつか ここで逢おう

 

 

一方で、最近よく考えるのは、供養のしかた。

 

もちろん、前述の通り全てをやる必要はないので、できることややりたいことをひとつずつ、素直にやっていけば良い。加えて、吟味した上で残った大切なものはちゃんと大切にしないと、いつか自分が腐ってしまうので、積極的に大切にした方がいい。

 

でも、その補集合、に対する処理が雑であるのは生き様として美しくない、すなわち「できることややりたいこと、大切にしたいこと」以外のもの、「できないこと、やりたくないこと、やらなきゃいけないこと、優先度が低いこと、etc.」への向き合い方、結論の出し方に改善の余地があるのは生き様として美しくないな、とも思う、自戒込み。そもそも忘れ物をしたかどうかもあやふやな感じの忘れ物であっても、それにいつか偶然出会い直すためには、それはそれで一旦手放す際にしっかり準備をしておく必要があり、再び出会ったとしてもそういった意味でそれはピュアな偶然であるというわけではない。その準備を怠った結果、もう戻れないような供養未満の何かしかなされていないのを見ると、かなり残念なのである。(そもそも、「より上位のやりたいこと」を達成する上で、その前段階ではやりたくないことをやらないといけなかったりもする。これまでは自分はやりたいことしかやらずに生きてきたような気がしていたものの、実はその途中過程においてたくさんのそれ以外のことをやってきたのだと最近は思うようになった。)

 

 

ありがとう さよなら 更に言うと愛してる

ありがとう さよなら みんな愛してる

それぞれが持ち寄る 何万通りのLife Time

君は巡り合わせを信じる?

Ah Hah?

 

 

吟味した上で、今はそのタイミングではないな、となって一旦手放すことにしたものたちと、手放す直前にどう向き合うか:そこにその人の美しさ、言うなれば経験に裏打ちされた想像力と、そこから湧き出てくる感謝や誠意のようなものが滲み出る。それは相手がモノであってもヒトであってもガイネンであっても、変わらない。具体例を挙げるとあまりにもグロテスクなのでやらないが、それを怠った存在に対して、長い目で見ると目減りしていくような感じ、幸せにはなれないだろうなというような感じを抱くことが増えた(見ていると現時点で既にそうなり始めていると感じることが多い)。

 

 

*****

 

 

繰り返しにはなるが、自戒も含めて、の話である。巡り合わせを信じていれば、ありがとう、がどんな時でも自然に出てくるんじゃないかな。

 

 

*****

 

 

ありがとう さよなら 更に言うと愛してる

ありがとう さよなら みんな愛してる

それぞれが持ち寄る 何万通りのLife Time

僕も巡り合わせを信じる 強く強く

 

 

帰りに寄った駅舎であるが、何年もずっと高架化のための工事をしており、見知ったテナントが消え、見知った建物が消えるなどしていて帰省のたびに表情を変えていた。今回の帰省で、東京郊外のルミネの雑貨フロアに迷い込んだかと思うようなテナントたちを揃えたフロアがまた新しくできて、なんかもはや地元じゃないみたいで動揺した。今の子どもたちはこれをふるさとと認識して育った上で東京に出たり東京から戻ってきたりするのだと考えると、これを東京の出先機関のように捉えてしまう自分にもはや居場所はないのかもしれないと思って少し悲しくなったりもした。

 

でも、みんな、変わっていく。そういうもの。巡り合わせを信じていれば、そのうちにまた新しいかたちで、輪っかができていくよね。などという感じになってきて、なんだかよい年を迎えられるような気がする。

 

 

俺たちには20年以上歌い続けている歌がある

俺たちには20年以上歌い続けている歌がある。人によってはもっと、それ以上かもしれない。

 

 

Take my hand

Take my whole life too

For I can't help falling in love with you

 

(Can't help falling in love - Elvis Presley)

 

 

 


俺たちの街には俺たちのサッカーチームがある。

 

 

別に選手たち全員が俺たちの街の出身というわけではない。なんなら俺たちの街出身の選手の方が稀である。でも、選手たちは日々俺たちの街で過ごして、俺たちの街で練習して、俺たちの街で飯を食い、俺たちの街の会社からスポンサー料をもらい、俺たちの街で、俺たちの前で試合をして、勝ったり負けたりして、一緒に喜んだり落ち込んだりする。出身がどこかとか関係なく、俺たちの街にやってきた友達や嫁さんがめちゃくちゃかっこよくて頼り甲斐があって、それで一緒に思い出を作ることができたらそれって最高じゃないですか。少し傲慢な考え方かもしれないけれど、でもそういう感覚に近いんである。俺たちのチームは俺たちの仲間であり、家族であり、誇りなのである。

 

 

最近、大人になったからか、そういうことがなんとなく実感としてわかって、自然と受け入れられるようになってきた気がする。小さい頃スタジアムに連れられて行って、英語もわからずにこの歌を歌っていた時はよくわからなかったけれど。

 

 

むろん、選手の中には俺たちの街で育った選手もいて、「xx小出身?え、2個下だしあいつの後輩ってこと?」みたいなこともないことはない。そういうのがあるとさらに燃える。母校の体育祭を毎年観に行くOBってなんか残念だなと高校の時は思っていたけれど、今ならわからなくもないな、と思う。それはマジで、俺たちの街のアイドルなのである。シオン......

 

 

 

 

とはいえ、そんな俺たちのチームはずっと弱かった。世の中、なんやかんや金がないとどうにもならぬことも多い。クルマや家電を世界中で販売していっぱいお金を稼いできてくれるパパがバックについているチームにはどうしてもかなわないこともある。「ウチなら今のあなたの3倍のお給料を出せますよ^^」と言われたら、選手とて一人の人間である、養わないといけない家族もいる、俺たちのチームを去ることになる。ずっと、ずっと、その繰り返しだった。一部リーグに昇格したものの、それを繰り返し続けて成績は低迷し、一部リーグから二部リーグに降格して、もはやチームの原型がわからなくなりかけることもあった。

 

 

でも、それはやっぱりよくない、なんとかしてある程度チームの形を毎年残して、継続性を持って戦っていく必要がある、ということをみんなが理解して、その形を作り始める努力をした。お金がなくともチームコンセプトやプレースタイルがあれば、それに魅力を感じた選手が残り始めるかもしれない、と。それがうまく回りだして、いい戦いができるようになることが増えた。残ってくれる選手が増えた。出ていく選手もいるものの、また次のいい選手がやってきてくれるようになった。今では、将来的にはオリンピックや日本代表も狙えるような期待の新人が、俺たちの街のサッカーに魅力を感じて、「ここで上手く、強くなりたいんです」と言ってやってきてくれる。昔みたいにお金を積まれて金満クラブにお買い上げされていくということはだいぶ減り、「日本代表に入るためにもっと上手くならないといけないので海外のチームに修業しに行くけれど、このチームがなかったら俺はここまで来れなかった、めちゃくちゃ感謝しています」と言って泣いて去っていく選手がいる。俺たちはそれを応援する。

 

 

チームコンセプトやプレースタイルがあるというのは応援する側、試合を観る側にとってもプラスになる。スタイルや方向性というのは観る側にとっての明確な評価軸、基準としても働く。「今日の試合で目指していたチームスタイルや作戦を遂行できたのか」という観点から試合を観たり振り返ったりすることができるようになり、何が上手なプレーで何がいいサッカーなのかがだんだんわかるようになってくる。ただなんとなく情だけで応援するにとどまらず、応援の質や評価の仕方が変わる。サッカーの見方が変わる。勝ったけどイマイチな試合、負けたけどやり切った試合というのがわかるようになり、単純なスコア以外で試合を語ることができるようになる。「あのチームのあの選手、xxという点で上手いしうちのチームに合うよね、来シーズンに獲得できないかな」みたいな話を居酒屋でしたりする。こういうの、なんというか会社の社長みたいというと大袈裟だけど、でも目標に向かって俺たちの街のみんなで正しい方向に進んでいく感じがして、楽しくないですか。楽しいです。

 

 

 

 

そんな積み上げが少しずつ実り始めて、今シーズン、リーグ戦はあんまよくないものの、カップ戦のトーナメントで優勝できるかも、日本一になれるのでは、という状況になってきた。いいじゃん。順調じゃん。準決勝の相手はここ数年日本を席巻した川崎というチーム。最近の日本代表のメンツはここから巣立っていった選手も多い。俺たちと一緒というには遠く及ばないほど川崎は強いが、でもチームのスタイルは近い。最近は選手が海外に抜けすぎて不安定になりだいぶ不調だけど、でもボールを大事にしてパスを綺麗に繋いで相手を剥がしながらゴールに迫っていく、観ていてワクワクするサッカーをやっている。ここで川崎を倒して乗り越えることは、俺たちの今までの積み上げが正しかったことの一つの証明にもなる。そういう意味でも楽しみな、重要な戦いになる。

 

 

準決勝の第1戦、俺たちと一緒というには遠く及ばないほど強いはずだったのに、大勝した。めちゃくちゃ嬉しい。第2戦をつつがなく終えればいよいよ決勝が見えてくる。そうなれば、第2戦、みんな新幹線に乗って、あるいは関越道を車で抜けてきて、多摩川のそばのスタジアムまではるばるやってくる。加えて、自分も含めて東京には俺たちの仲間がまるでスパイのように数多く散らばっているのである。普段は東京の人間のフリをして、「東京に出てきてよかった〜」みたいな顔をして暮らしているが、こういう時は都合よく(?)、俺たちの街のことを思い出してスタジアムに駆けつけるのである。川崎の人間にはウザがられるが、何くそ、こっちだって必死なんだよ。それよりもいい試合にしようや。

 

 

Take my hand

Take my whole life too

For I can't help falling in love with you

 

 

 

 

試合は2-0で勝利。つつがなく終えることができた。

 

 

20年以上、お互いに手を取り合ってここまで来た。あの時の選手たちはもういないけれど、でも俺たちのチームは俺たちの仲間であり、家族であり、誇りなのである。アンセム、エンブレム、というものの大切さ、ありがたさがここにきてわかるようになってきた。俺たちは20年以上、この歌を歌い続けて選手を送り出し、試行錯誤しながら積み上げてついにここまで、決勝まで来た。それだけですでにありがたいことではある。決勝でもスコアはともかく、俺たちのスタイルを存分に発揮してやりきってくれたらそれでいい。でもせっかくだからさ、優勝するところも俺たちは見てみたいのよ。あとちょっとだけ、欲張らせてください。

 

 

あったかもしれない人生、それから渚と際と画廊、眼を養うということ

 

 

*****

 

 

 

2024年7月某日

 

 

先日、四国に行ってきた。高知と愛媛を中心に行ってみたいところがいくつかあり、いつものようにフラフラとまわってきた。

道中、自転車で四万十から宇和島に抜けつつ、梼原に寄ることにした。以前から気になっていた町だ。ゆすはら、と読む。

 

 

さっきまで晴れていたかと思えばすぐ雨が降る。

 

 

梼原、アドレスとしては一応高知県でありつつ、愛媛と高知の県境の香りがある。自転車で走っていると、高知でも愛媛でもなく、強いて言えば中央構造線沿いの雰囲気なのかな、厳密には違うのかもだけれど、という感じ。ちなみに、梼原町立歴史民俗資料館の展示によれば、梼原は高知の中心地からは遠く、むしろ古代から愛媛とのつながりの方が強かったとのこと。町の北側にある三嶋神社も、愛媛今治しまなみ海道大三島にある大山祇神社大三島神社)を分祀したものだとかで、要は町の守り神が愛媛由来、まあそんな感じ。

 

 

三嶋神社。

三嶋神社へ続く木の橋。

 

 

梼原は木の町なんだそうで、木を効果的に使った隈研吾の作品たる建築物(この三嶋神社の橋はそうではないが)を町のあちこちで見ることができる。いささか町おこしの香りが強いわねと思いつつ、今回の本題からは逸れるのでそのことについてはここではあまり触れずにおく。

 

 

建築家の隈研吾についておさらい。この梼原という町に来てから作風が変わったとのこと。町のあちこちで同じような記述をたびたび目にした。

初めは好きゆえに獣医を志していたが[11]家屋の修繕をするデザイン好きの父親に付き合ううちに、建築に興味を持つようになる[9]大田区立田園調布小学校に通っている時、1964年(昭和39年)の開催を控えた東京オリンピックの建築物を目にし、いよいよ本気で建築家を志すこととなった[8][12]

 

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大学院で修士論文を書いていた時期に、同級生の多くは当時話題の新鋭・安藤忠雄に憧れていたが、隈はその逆を行くことを選択し、アトリエ系事務所ではなく、社会に揉まれるためにと大手設計事務所日本設計に就職した[17]

 

***

 

初期はドーリック南青山ビルM2ビルなどポストモダニズムに一部脱構築主義要素を加えた建物を発表していたが、高知県高岡郡檮原町の「ゆすはら座」存続への関わりをきっかけとして[22]木材などの自然素材を生かした建築や、縦格子を多用したデザインが特徴的な作品を多く手がけるようになる。

木材を多用するようになったのは、阪神・淡路大震災(1995年)と東日本大震災(2011年)を見て、コンクリートなどの人工物で自然に立ち向かおうとする20世紀の思想が破綻したと感じたためであると回顧している。森林を手入れして生み出す木材は、人間と地球をつなぎ合わせる存在と位置付けている。また大型の公共建築物が「税金の無駄遣い」「環境破壊」と批判されるようになった時代に育ったうえ、経済成長の鈍化と高齢化が進んでいる日本の現状を見据え、周囲に調和した「負ける建築」や、「コンクリートと鉄の時代」を「木の時代」に変えることを志向している[23]

Wikipediaより)

 

 

その、影響を受けたというゆすはら座がこちら。

 

 

1階部分。ちょっとした体育館のよう。おそらく、椅子を並べて壇上をのぞむのだと思う。

2階部分。こちらは桟敷席がついている。

 

 

決して大きく広くはないけれど、でも町の規模を考えればおそらく必要十分なもので、実用的な感じがあり、好き。アームチェアに座って頭だけで考えたような鉄筋コンクリートのビルが実需を上回る形である種競争的に建てられていくのを近くで見ていた人の考え方が、このゆすはら座での体験前後で変わるというのはわかるような気がする。

 

 

不意に、建築家になりたかった時期が自分にあったことを思い出した。

 

 

『雲の上のギャラリー』。隈研吾の手がけた、梼原の建築物たちについての解説がある。



本当に小さかった頃は恐竜や虫が好きだったものの、それ以降は興味の幅が発散して半ば収拾がつかなくなっていた。勉強も好きだったが、勉強も含めたそういった博物学的・探究的行為が何らかの仕事に直接つながるようなイメージがなかった。仕事というものは自分が面白いかどうかはそんなに重要ではなくて、なんかこうもっと辛くて大変で、でもちゃんと他人のためになるものだ、というようなイメージがぼんやりとあった。自分のなかでは、勉強はあくまでもある意味で道楽とでも呼ぶべきものだった。

 

 

そういう経緯もあり、将来のことを一応考えたりする中で、中高の頃は建築家になりたいと思うようになっていた。そういう時期が長かった。地元に残って医療関係の仕事をしなよ、と高校の担任は面談のたびに言っていたけれど、あまりにも道楽成分が少なそう(こういうことを言うと怒られそう)だし、そもそも小さい頃は病弱で、病院が嫌いだった。それで、仕事をするならものづくりとデザイン方面の何かがいいな、と思っていた。で、それって建築なのかも、みたいな。実体のあるものを手を動かして作りつつ、自分の考えていることを世に向けて表現することもできて、それでいて人のためにもなる。大変だがやりがいがありそう。加えて自分は日本の歴史もかなり好きで、建築関係の仕事に就けば神社仏閣の補修や保全にも関われるかもしれないとも思っていた。

 

 

 

 

一方で、建築家という仕事について何となく調べてみると出てくるのはだいたい安藤忠雄隈研吾だった。何となく、の程度なのでまあそのあたりの有名どころが出てくるのである。でもしかし、彼らの作品たる建物たちの写真を眺めながら建築士の一般的な進路というか人生を調べていると、建築士になってもこの手のやりたいことができるようになるのは一握りなのかもしれないと当時、思った。仮に頑張って建築士になれたとしても、その先については自信がなかった。模試の結果だけ見れば百万遍の大学の建築学科にはまあ行けそうな感じだったものの、結局踏ん切りがつかず、学部選択を先延ばしにできる大学に1年遅れで入った。

 

 

大学2年生の夏に学部を決めるとき、提出した最終候補の中に建築学科は入っていなかった。その時に決めて進学した学部学科の大学院に行き、現在もその延長で仕事?をしている。建築士にはなっていないものの結局まあまあ(あるいはそれ以上に)茨な感じ(と言いながらフラフラ旅をしたりこんなものを書いたりしている)で、そういう意味では仕事として扱う対象は違えど高校生の時に考えていた問題点はそのまま残っているとも言える。

 

 

雲の上の図書館。個人的には思うところがないわけでもないが。

 

 

昔と今で違うところがあるとすると、経験に基づく納得の量。高校生の頃は働いたこともなかったし、話を聞ける大人は親か先生くらいしかいなかった。でも今では、働いてみて辞めてみたり、いろんな人と会って話したりする中で、今の選択が現時点での結論だと思えるようになってきた。だったら茨だとか一握りだとかそんなこと言ってても始まらないし、まあやるしかない、なんならありがたいことに環境的には結構恵まれているっぽいし、という感じになってきた。考えることは一通り考えたので、あとは頭を適度に空にして、目の前のことを大切にした方がいい。

 

 

こんなアホみたいな旅ばかりしているけれど、自分にとって、旅とは自分の中にたまっているものを熟成、あるいは供養していく行為だなと感じる。梼原以外にも四国のあちこちをまわったが、とりあえず流れ着いたところをまわってみるというよりはどこも一度行ってみたいと前々から思っていたところばかりで、初期的な”見たいものリスト”とでも言うべきものが何となく自分の中にあった。つまり、特定の場所に行ってみたい、と思う時点で既に、自分の中には比較的長い期間を経てたまっていたその土地に関する予想しかり仮説が何かしらできていて、それらの是非を確かめに行く感覚。もちろん未知のものに出会いたいという思いもあり、それがメインの旅もないことはないけれど、仮説や予想を持ってのぞむときの方がより深く潜っていける感覚があるというか、未知のものに出会った時の鮮やかさもその方が大きくなるような気がしている。自分のなかのことについても同じで、知らず知らずのうちに長い期間を経ていろいろなものがたまっていき、それが今回はたまたま旅先で不意に立ち現れて、反芻されながら新しいかたちを持つようになっていく。

 

 

自分の中にたまっているもの(その総体が自分自身ということになるのかもしれないがそれはともかくとして)というのは、そのままではかたちが曖昧で、あたかも波打ち際のように、渚のように、状況や気分によって揺らいでいる。満潮の時もあれば、干潮の時もある。10秒前には乾いていたところに波がやって来て、足首まで浸かったりする。そしてまた沖へと引いていく。マクロに引きで見ると海岸線というものはあるが、ミクロにすぐ近くで見ると波打ち際というのは刻一刻と微妙に振動していて、海にも陸にもなる部分、渚、を持っていることがわかる。

 

 

旅先で目の前のものに集中しつつ、一方であったかもしれない人生のことについても考えていると時間が飛ぶように過ぎていく。過ぎていくが、その時間が好きで旅をしているのかもしれない。例えば旅を一つのトリガーとして、ふっと目の前のものから離れて熟成や供養のフェーズに一時的に入ることは、別にネガティブでも閉じているのでもなくて、地殻変動によって海岸線がリアルタイムで変わっていくのをフラットな気持ちで眺めるようなものなのだろうと思う。

 

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

2024年7月某日

 

 

およそ一週間の四国めぐりを終え東京に戻った翌日、母校の高校生たちと話す機会があった。

 

 

かつて自分も高校生の時、彼らと同じように希望者のひとりとして高校単位で東京に社会科見学に行き、企業にお邪魔して高校OBの方々(そんなに多いわけではないが)の話を聞いたり、高校OBの大学生と話したりした。ひるがえって、今の立場になってからは東京にて彼らを歓迎する側として、なんだかんだ縁あってほぼ毎年高校生たちと話している。

 

 

彼らと何について話すかは一応フリーということになってはいるものの、主催者たる高校側のスタンスとして、受験勉強のやり方、受験の実際、大学のこと、研究のこと、就職のこと、将来のことなどを高校生に話してほしいというのもある。一方で来てくれた高校生たちがどんな感じかというと、中には2年生もいるものの、ほぼだいたい高校1年生。初めての定期試験・期末試験を終えひとまず夏休みを迎えたばかり、といった感じらしい。高校の定期試験は中学のそれと比べるとやっぱり難しく、部活にもそれなりに時間を割いているためそんなに上手くいかなかったとのこと。そうだよね。したがって、これはもうしょうがないのだけれど、どうやって部活と勉強を両立してましたか、とか、今の時期に何を頑張ったらいいと思いますか、みたいな、比較的直近の大変さをどう乗り越えたか聞いてみたい人がほとんどで、それらについて一つずつ思い出しながら答えていくことになる。一方で高校側のスタンスをある程度満たしていく必要もありながら持ち時間も限られているので、将来どうしたいの、とか、どんな大学に行きたいの、とか、模試でどんな大学を書いているの、とか、遠くのことについては、高校生側からなかなか出てこないこともあり、少しずつこちらから聞いていくようにする。これもまたかつての自分がそうだったように、よくわからないです、決められません、とモジモジしてはにかむ人がほとんどである。ちなみに、この感じの高校生の割合が年々大きくなってきている感覚がある。

 

 

”””でもそれでいいと思う。自分も結局決められなくて、決めるのが嫌で、入学後に柔軟に専門を決められる大学に無理して入った。全員がそこまで極端なことをする必要はないのかもしれないけれど、でも少なくとも、高校1年生の段階で10年後の自分の職業を意識して、そこから逆算して大学や学部を決めようとするのはナンセンスだと今でも思う。というか、大学に入って就活をしてから初めて知る業種や企業の方が多いし、自分は一体それらのどこと適性がある、ありそうなのかを見極めるのは大学生でも苦労する。そもそも、理想を言えば就職とか将来とか一切関係なしに、勉強してみたいことや知りたいことに近づける大学や学部を選ぶのが良いはずだし。自分との適性や小さい頃からxxxやyyyになるのが夢だったんです、みたいな人以外はまあ悩むよね、という。

 

 

これはみんなの年齢ではまだ実感できないかもしれないけれど、みんなはとても未来ある若者で、同時に未来のことがよくわからない若者でもあって。じゃあどうしたらいいのか、未来とはそもそもなんなのかというと、インドに行って人生観変わりましたとかそういうことをやらない限り、未来は現在の延長にしかないというか、目の前のものを大事にするしかない気がする。目の前のものをよく見て、これは好きだなとか、嫌だなとか、どうしてそうなっているんだろうとか、そういうことを考え続ける。目の前のものを大事にするというのは多分そういうことで、目の前にあるものたちを素直な心で見比べて、差異をしっかりつかんで、何がどう違っていてどこが好きなのか、一つ一つ記録して積み上げていった先に、少し先のことが朧げながら見えてくる、そんな感じじゃないかと思う。周りを見ていても、自分も含めて全てがプラン通りに進むことはなく、そうだとしてもその都度目の前のことをよく見て軌道を調整して、目の前の人やものを大切にしている人は、今では高校の時に比べてみんないい顔をしているような気はする。””"

 

 

というような話に最終的になっていった。なっていきながら同時に、そうやって積み上げ続けてある程度納得感のある方向性が見えてそちらに進んだとしてもなお、あったかもしれない未来について考えざるを得ない瞬間が事後的に不意に訪れることは何度もあるし、その度に護岸工事をしたり放水路を掘ったりする必要が出てくるんだけどね、と喉から出そうになった。

 

 

そろそろ、自分がしゃべるのではなく、護岸工事をしたり放水路を掘ったりしている先輩方の話を聞く側になりたい。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

2024年8月某日

 

 

帰省している。母に用事があり夜に家にいないとのことで、父と飲みに行こうと前夜に決めた。せっかくなので、父との合流前に、昼のうちから海や街をフラフラすることにした。

 

 

 

 

太平洋側は台風やらなんやらで大変らしいけれど、全く気配がない。昔はよく釣りをしに来ていたものの、釣りをしなくても楽しいというか、単純に気持ちがいいんだなと思った。堤防の上から小魚の群れを見ているだけでも十分。

 

 

その後は前から気になっていたカフェ図書館に。元は建築設計事務所の私設図書館のようなところだったのを、カフェ併設型に改装したのだとか。タイミングが合えば、建築模型を作っているところを見たりできるらしい。

 

 

 

 

クリームソーダを頼み、本棚から面白そうな本をピックアップ。建築関連の本に限らずいろいろ置いてある。白洲正子の本をまとめている棚、好きだった。

 

 

 


仕事関連のタスクがひと段落したので休憩がてら本を開く。開くが、白洲正子の本と言いながらしばらく青山二郎の話が続く。ある種ブルバキ的というか、作者とはこの場合単なる預言者にすぎないというか、語られていることは個人の主張というよりむしろ界隈やサロンにおける語りの一部がポロッとこぼれ出たようなものであって、今回はそのボスが青山二郎だということを思い出すなどする。

 

人間でも、陶器でも、たしかに魂は見えないところにかくれているが、もしほんとうに存在するものならば、それは外側の形の上に現れずにはおかない。それが青山二郎の信仰であった。「『形と色の奥に秘められた何物かを掴みたい』と夢二は言つたさうだが、歌麿は言はなかつた」と彼は書いている。むろん『聖衆来迎図』や『山越の弥陀』の作者たちも言わなかった。そういう意味で彼らは真のリアリストだったのである。

 

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何事につけジィちゃん(青山二郎)は、「意味深長」という言葉を嫌っていた。精神は尊重したが、「精神的」なものは認めなかった。意味も、精神も、すべて形に現れる、現れなければそんなものは空な言葉にすぎないと信じていたからだ。

 

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お茶は「わび」の精神の蔭にかくれ、お能は「幽玄」の袖に姿をくらまし、お花の先生は蜂みたいに花の「心」の中で甘い汁を吸う。形が衰弱したからそういうところに逃げるので、逃げていることさえ気がつかないのだから始末に悪い。

 

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ある日、壺中居で、私が生まれてはじめて買ったものは、よく知っている中国陶器ではなくて、紅志野の香炉であった。(中略)見せた時も、「フン」といったきり、もう済んだことだと言わんばかりに無視された。小林さんとちがって、私には何一つ教えてはくれず、放っといて勝手に買わせるというやり方で、戦利品を自慢して見せに行くと、「なんだこんなもの、夢二じゃないか」と馬鹿にされた。夢二の絵のように、空ばかり眺めて美にあこがれている、要するに、頭脳の所産ではないか、というのである。

 

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「美なんていうのは、狐つきみたいなものだ。空中をふわふわ浮いている夢にすぎない。ただ、美しいものがあるだけだ。ものが見えないから、美だの美意識などと譫言を吐いてごまかすので、みんな頭に来ちゃってる」

www.sekaibunka.com

 

 

海でのんびりしたりタスクを消化したりしていた関係で思ったより時間がなく、本を棚に戻し、街に出て父と合流。晴れの日は少ないものの、海がきれいで日本酒がおいしい土地に生まれてよかったな、と思う。

 

 



店を出て、散歩がてらいろいろ話しながら歩いて帰った。地元に残っていたら、引き続きどこか鬱屈とした感じのままだっただろうな、そういう意味でも東京に出てよかったよね、という話をした。こんな感じで楽しく飲めるようになってくれて嬉しいと言われるのはこちらも嬉しい。人生は長い。

 

 

 

 

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2024年8月某日

 

 

祖母に会いに行った。

 

 

1年ほど前からひとりで暮らすのが大変になってきて、現在はグループホームで暮らしている。最後に会ったのはグループホームに入る前、去年の正月。ホームの方曰く、コロナ対応で15分のみの面会だとのこと。面会って言うとなんか病人や受刑者みたいでちょっと嫌だけれど。

 

 

両親(すなわち祖母の息子夫婦)はちょくちょく顔を見せに行っているので、その二人のことはまだ覚えている。けれど、こっちを見て、ちょっと戸惑ってはにかんで、「ごめんけど、この人は誰らろっかね......」と。両親と3人で、「孫ですよ、孫〜」とやってみるも、結局最後まで思い出せず。ショックがないとは言わないまでも、ある程度予想はしていたしそういうものなのでまあね〜という。ただ、おもしろかったのがここからで。両親が祖母に話しかけたときと、自分が話しかけたときで、様子が不思議な感じで違うのだ。

 

 

両親が話しかけたときも両親と目を合わせないわけではないが、自分が話しかけたときの方が明らかに目が大きくなっていてこちらを見てくる。両親が話しかけたときと、自分が話しかけたときで、会話のつながり方に差がある。両親が話していることは半分くらいしか理解できていないみたいなのに、自分が話すことはわかるようで、話がつながっていく。もちろん、両親の話や声には主語がなかったり声がところどころ小さくなったりするところがあって話がややつかみにくいのかもしれない。でも、目を見ていると、そういうことではないような気がする。

 

 

繰り返しになるが、両親のことは覚えている。両親と話すとき、当然両親の性格や今までの付き合いなど、両親についてのいろんなことが頭の中を駆け巡り、それらの情報が会話の内容自体を押しのけてしまっている感じがする。それは別に父や母のことが根本的に嫌いだとかそういうことを言っているわけではなく、例えば父に話しかけられた瞬間ふっと5年前の父との苦いやり取りが思い出されて、その一瞬、意識が現在の会話から脱落する、とか。広く言えば、バイアスということになるのだろうか。バイアスのせいで、ハナから話を聞く気がない瞬間も、多分ある。

 

 

一方、孫である自分のことは覚えていない。覚えていないから、会話の内容を邪魔する事前情報がない。なのでバイアスが多分存在していなくて、逆説的なことに、かえってクリアな状態で話ができる。目もかっと開いて、こちらを見つめてくる。誰なのかわからないんだけれど、でもちゃんと話を聴こうとしてくる。(別の見方をすれば、「孫の顔を忘れてしまった」ということで頭がいっぱいになって話ができなくなっているわけでもなく、その面でも頭がフラットになっているのはなんかすごいと思う。)

 

 

これってついこないだ読んだ青山二郎じゃんね、と思った。

 

 

うまくものが見えるとき、うまくものを観ることができるときというのは、目の前のものから離れてあれこれ彷徨っているのではなく、目の前のものに集中しているとき。

 

 

同時に、忘れたことで逆に新しい関係を上手に築くことができるのだとしたら、それは生まれ変わるということでもあるというか、前向きなことなのかもしれないとも思った。あまり悲しんだりせず、こちらも頭をクリアにして向き合うことが、祖母との時間を大切にするということなのだろう。

 

 

 

 

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2024年8月某日

 

 

再び、先日訪れたカフェ図書館へ。前回読みきれなかった本たちをしっかり読みたくなった。

 

 

前回はレモンのクリームソーダだったのだけれど、今回はメロンのクリームソーダに。それとベーコンエッグのセット。でもサラダが実は一番おいしかった。

 

 

前回好きだった白洲正子の本棚。
来館者の絵日記もある。

 


面白かった点を少しずつピックアップ。

 


1冊目、カフェの空間学。

外観写真と図面のスケッチがたくさん載っていて、それを眺めるだけでも面白い。30あまりのカフェを取り上げて、それぞれが街や人とどう共存して関わっていこうとしているのかを考察している。

 

book.gakugei-pub.co.jp

 

閑話休題のコラムで語られる、”際”の設計が面白い。

 

設計者なら誰でも、場所とのかかわりを考えながら設計しているだろう。僕は、常に”ひらくこと”を意識している。

(中略)

特にカフェにおいては、商業施設としての顔先や中身を考える前に、街や通りと建物や空間が分断しないようなあり方を大事にしたいと思っている。それは、僕がそもそもカフェという場を、ただコーヒーを提供したり、一息つくためだけの場というのではなく、バリスタや客、地元の人や遠方からの人などという、所属や立場に関係なく、コーヒーを通じてそれぞれにとって特別な体験ができる空間であってほしいと考えているからだ。

例えば、外からも内部の営みが感じられたり、通りと一体化したかのような空間づくり、これを「際の設計」と呼んでみることにする。

(中略)

際の設計のためには、まず場所の特性を見出す必要があるが、中でも「変えてはいけないもの」の判断が重要になる。このために、初めて現場を見に行く時はいつもピュアな気持ちで臨むように心掛けている。

 

つまり、際とは渚のことだということになるのではないだろうか。外でも内でもなく、同時に外でも内でもある。その、際=渚を設けておくことで、海と陸が行ったり来たりできる。コーヒーショップが通行人に”ひらかれる”ことになる。自分の中にたまっていたものたちの熟成あるいは供養が進行し、新しい海岸線ができていく。

 

そして、際が際として強化されるように設計するためには、その場所を「ピュアな気持ちで」眺めて、どうしたら際が際であれるのか、際の源はなんなのか、見出すということが求められるという。これも、青山二郎に通ずるところがあるように思う。自分がやりたいことや、自分の思い込みをいったん捨てて、対象をよく観る。よく観ると、その場所の”渚性”の成り立ちが見えてくるので、それを引き出して強化するように、設計を進める。

 

やっぱり、建築士になる人生もそれはそれで面白かったような気がする。

 

 

2冊目、大倉宏、東京ノイズ。東京で学び、また戻ってきた美術評論家のエッセイ集。

niigata-eya.jp

 

こちら、原文をそのままメモしたわけではないのだが、東京には画廊が多く、地元には画廊が少ないのだと言う。美術館側の人間は立派な美術品を購入してせっかく展示してもお客さんが全然来てくれず困っていると言っているが、それは画廊が少ないからだと言う。たいていの日本人にとって、美術品というものは高尚なものというか、それこそデパートで最低でもウン十万円で売られているようなものであって、自分とは関係のない遠い世界のものになってしまっている。もちろん、日常的に規模はどうあれ絵を描いたりしている人もかなり少ない。そこで、ひとびとと美術館を繋いでくれるのが、画廊である。画廊それ自体に入場料はない。絵を見るだけのためにふらっと入ればいい。ただし絵に値段もついているので、欲しくなったら買うこともできる。美術館よりも気軽に入ることができて、気に入ったものは自分のものにすることができる。美術館だけにたまに行くだけではこうなることはなく、美術が、より身近になる。

 

画廊も、渚に見えてくる。

 

 

3冊目、白洲正子、器つれづれ。先日も読んでいた。

www.sekaibunka.com

 

引き続き、青山二郎について。

「わかるなんてやさしいことだ。むずかしいのはすることだ。やってみせてごらん。美しいものを作ってみな。できねえだろう、この馬鹿野郎」

そういいながら、傍らのコップを指先で叩いてみせる。

「ほら、コップでもピンと音がするだろう。叩けば音が出るものが、文章なんだ。人間だって同じことだ。音がしないような奴を、俺は信用せん」

 

小林秀雄について。

『当麻』という作品の中に、次のような言葉がある。

 

美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。

 

これは世阿弥の「花」について語ったもので、その前に、「物数を極めて、工夫を尽して後、花の失せぬところをば知るべし」という『花伝書風姿花伝)』の一節があるのだが、この美しい「花」を、「物」に置き換えてみれば、小林さんが美についてどういう考えを持っていたか、知ることができる。

ーーー「美しい物がある、物の美しさという様なものはない」。そこには叩けばピンと鳴る手応えがあるだけで、あいまいなものは何一つ認められない。物の美しさについて、人はきりなく喋ることができようが、美しい物は沈黙を強いる。小林さんは終始、そこだけに焦点をしぼって書いた作家である。相手は骨董でも文学でも絵画でも変わりはなかった。沈黙したものを対象に、無理に口を開かせようとはせず、我慢に我慢を重ねてつき合った後、向こうが自然に秘密を明かす時まで待つ。

 

***

 

青山二郎さんは、『眼の引越』という著書の中で、小林さんと骨董の出会いについて、実に生き生きと描いている。(中略)小林さんはいつもつまらなそうな顔をして、別室で本ばかり読んでいた。ところがある日、(中略)ふと買う気になった。それは少しも骨董臭のない、健康で正直な姿をしており、陶器を観るなぞと特別思わないで、そのままぴたりと「感じ」が来たのであると、青山さんは記している。

それからは師匠と弟子との競争になった。ふつう骨董というものは、「感じ」から「感じ」へ渡り歩いて終わるのが落ちであるが、そんな所でうっとりするような小林さんではなかった。二、三年も経つと、「感じ」から今度はほんとうに「物が見える」ようになり、「『買つた!』と言ふのは小林の得意な叫びになつて、当時の道具屋を感激させたものである」

 

***

 

骨董は買ってみなければ解らないという。(中略)いつも先の方だけ見て、過去を振り返ることをしない人であった。一旦買って自分の物にした骨董は、極端なことを言えば、もう用はなかったのだ。小林さんが歴史を重んじ、古人を尊んだのは、過去を振り返ったわけではない、「僕は、ただある充ち足りた時間があつた事を思ひ出してゐるだけだ。自分が生きてゐる証拠だけが充満し、その一つ一つがはつきりとわかつてゐる様な時間が」。骨董の場合も、その例を洩れない。骨董を買うということは、小林さんがある充ち足りた時間を確実に生きていることの証しだったので、美術をゆっくり鑑賞する暇なんてなかったのである。

 

 

中途半端な解釈をゆるさない、追随をゆるさない、そのラインまで持っていく。あるいは、持って行かれたものをじっくり見る。頭でこねるようなところは卒業して、その先の、ある種の身体性とでも言うべき、修行による慣れの境地にたどり着いて、そこでその境地にたどり着いた人だけに見えるものが見えて、「ユリイカ!」となる体験のすばらしさ。 ゾーン。そうなってしまえば、そうなることができてしまえばもう、あとのことはどうでもいい。これまで生きてきてこのゾーンに入ることができたのは両手の指に収まらないくらいの回数しかないけれど、そんな程度の自分でさえ、これは麻薬的だと今でも思っている。加えて、学習にもしも本質があるならばそれは、型を学んで再現できるようになること以上に、型を学んだ上で差異を認識できるようになることだと思う。そして、その"ちがい"を喜べるようになることを、心が豊かになったと呼ぶのだと思う。

 

 

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ここまで散々書き散らしておいてなんだけれども、この文章自体、渚という仮説をバイアスとして働かせて書かれているような気がする。加えて、旅というものは振り返るべきものではなく、その瞬間における没頭性にこそ全てが詰まっているのだとすれば、この文章の前半部分などに意味はほぼないのかもしれない。一方で、旅先で目の前のものからいったん離れて熟成と供養を行うことは必要だがそれを意識下で行うのではなくて、無意識下で処理させておくべきというか、勝手に処理されているから安心して目の前のものを見るのが良いということなのかもしれない。

 

 

いずれにせよ、充ち足りた夏だったことに間違いはなく、一周まわってそれをしっかり抱きしめているところである。

ヤマメとサクラマス

何かを選ばないといけないような、

何か一つに決めないといけないような、

ある種の強迫観念が年々強くなっているような、

どうもそんな気がする。

普段はかなりヘラヘラフラフラしているがそれは仮の姿であるというか、同じ布の表と裏のどちらを見ているか、ということに過ぎないような気がする。ヘラヘラフラフラしなくて済む人は、ヘラヘラフラフラする必要がない。羨ましい。

覚悟がないとか、責任感がないとか、そういう話ともちょっと違う。自分で言うのもなんだけれど、むしろ、それは多分人よりも強いような気がしている。

 

 

 

 

 

 

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2023年8月某日

 

 

青春18きっぷを使って、実家から在来線を乗り継いで東京に戻ってきた。午前中に出て寄り道をしつつ、東京に着いた時にはすでに夜だった。

 

 

途中、祖母宅の最寄り駅のあたりに差し掛かったあたりで、中学生の男子が3人、押しボタンを押して電車のドアを開け、車内に乗り込んできた。発車後、それぞれが夏休みの出来事を話し始めた。

「まず、新幹線で東京に行って、ディズニーに行ってさ」

「ディズニーのホテルに泊まってさ」

「次の日は原宿に行って、Supremeの古着Tを3万円で買ってさ」

「全部でXX万円、一人で使ったんだよね」

 

 

明治初期、厳しい窮乏の中にあった長岡藩に、救援のための米百俵が届けられました。米百俵は、当座をしのぐために使ったのでは数日でなくなってしまいます。しかし、当時の指導者は、百俵を将来の千俵、万俵として活かすため、明日の人づくりのための学校設立資金に使いました。その結果、設立された国漢学校は、後に多くの人材を育て上げることとなったのです。今の痛みに耐えて明日を良くしようという「米百俵の精神」こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要ではないでしょうか。

(2001年5月10日 第151回国会における小泉純一郎首相(当時)所信表明演説より)

 

 

でも、寄り道までして食べに行ったラーメンは確かに美味しかったし。人のことを言うのは簡単だけど。難しい。

 

 

あと、話は変わるけれど、実家を離れて東京に戻ることを、「東京に帰る」とは言いたくないな、とも思う。

 

 

 

 

 

 

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2023年8月某日

 

 

青春18きっぷの残りを消化しようと思い、弾丸で山陰をまわった。寝台列車を唐突に予約して島根に行き、3泊したのち18きっぷで萩へ向かった。長旅が予想されたこともあり、出費を抑える意味合いからも基本的にゲストハウスやカプセルホテルを転々としており、萩でもゲストハウスに泊まった。

 

 

最近のゲストハウスはカフェ併設型だったりすることもあり、内装や設備、家具にこだわっているところも多い。萩でのゲストハウスもその例に漏れず、切れ味の良い包丁や綺麗なお皿を自由に使えるキッチンを備えていた。近くのスーパーで良さそうなカンパチとイカを入手し、刺身にしていったん冷蔵庫へ。

 

 

シャワーを終えて、冷やしておいた刺身とビールを取り出してひとりで飲んでいると、スタッフの女の子がやってきて、食べ終えたと思しき夕飯の容器を洗い始めた。(いちいち覚えていて、無駄に記憶力が良くてキモい。)(以降、適宜ぼかしたり変えたりしながら書いています。知らん人にこんなところに丸々書かれるのもなんかキモいだろうし申し訳ないので。)

 

 

 

 

その後、どういうわけか一緒に刺身を食べ始めた。一緒にお酒を飲まなかったのは彼女がまだ大学2年生、19歳だったから。知らない街で知らない19歳と刺身を食べるの、ちょっと犯罪だなと思いつつ、まあ一瞬のきらめきだしな、みたいなよくわからないことをビールを飲みながら考えた。

 

 

彼女はいわゆるヘルパーというかたちで、このゲストハウスを探し出してわざわざやってきたのだと言う。ヘルパー、2週間とか1ヶ月とか人によってまちまちだけど、ホテル運営をヘルプする人。お給料は出ないし食費は自腹だけれど、掃除や洗濯を手伝う代わりにその期間のあいだはタダで泊まっていいよ、というシステムらしい。そんなのあるんだ。学生時代にやってみたかった。

 

 

「でもお店の人や地域の人が差し入れをくれたりするし、食材も割と安いからそこそこの貯金でもやれるんです。何より、出費がマイナスだとしても得られる人生経験が段違いに良いので。」

ーーーそれはそうですね。むしろそれは実りある時間とお金の使い方ですよね。

「今年の3月に初めてヘルパーをやったんです。京都のゲストハウスで。そこではシフトがきっちり決まっていて、そこそこ忙しくて。」

「でも、ここは、いい意味でいてもいなくても良いというか。好きにしてていいよ、って言ってくれるんです。そう言われると、なんか戸惑ってしまって。」

「萩が歴史のある街だということはなんとなく知っているけれど、そこまで歴史に詳しいわけではなくて、とりあえず街を散歩しながらのんびり過ごしています。」

ーーー良いですね〜。

 

 

「行き先を決めることなく、行った先でたまたま見つけた面白いものや綺麗なものを見つけて楽しむのが良いですよね。」

「見てくださいよこれ、萩の学生服屋さんの看板、イラストが高橋留美子っぽくないですか。あとこれ、幕末の白塗りの壁が綺麗だし、大正レトロ的な漢字フォントの看板も。」

ーーーうわー旅の醍醐味ですね。その感性、どうか無くさずにいてください。ぜひ大事になすってください(なんでも鑑定団風)。

 

 

「大学の友達、旅行と言っても定番の温泉地・観光地に行くとか、ジャニーズの遠征に行くとか、そういうのが多くて。あんまり馴染めなくて。それで、ゲストハウスに行ったら何か新しい仲間みたいな人やものに出会えないかなって思って。実際、京都のゲストアウスでのヘルパーも楽しくて。それで今回、このゲストハウスを見つけて飛び込んでみたんです。」

「ここ、萩は結構XX(東北の某県)に似ていて、なんか落ち着くんです。飛び込みで来たに等しくて、縁もゆかりもない土地なのに、バスセンターで高速バスを降りた途端、あれっ地元かな、って思えたくらい、なんか懐かしくて。」

ーーーXXなんだ、自分もYYの出身です。萩もそうだけど、日本海側って謎の同じ雰囲気がありますよね。日本海側なら大体どこに行ってもほっとします。それで言ったら松江も良かったです、ぜひ帰りに寄ってみてほしいです。

 

 

「私、魚介類の中でイカが一番好きなんです。萩に行くよって周りに言ったら、イカが美味しいよって教えてくれて嬉しかったし、うわーラッキーじゃん!って。でも捌き方わからなくて、まだ食べてなくて。だから今日こうやって、なんかイカをご馳走になれて、とても嬉しいです。まさかこんな形で食べられるとは思ってなくて。しかもちゃんと美味しいですね、ありがとうございます。」

ーーーそれは良かったです。YouTubeで捌き方載ってるからぜひやってみてくださいませ。

 

 

「昨日は大学4年生のお客さんが来てくださっていて、少しお話ししたんですけど、就活が終わって色々と良い機会だということで、地元から何日もかけて18きっぷを使って一人で萩までいらしたらしくて。」

「で、一人旅って寂しいらしいんです。いつから、って聞いたら、初日からすでに、って。」

「でも、私も少し違うかもだけど、ちょっとわかるんです。何か嬉しいことがあったり、良いものを見つけたりしたら、それを誰かに伝えたくなる。そういう時に一人だと、なんか寂しくなっちゃうんです。」

「でも、それを伝えたくなる相手は誰でも良いわけではない、というのが難しくて。周りの友達はそこには当てはまらなくて。みんないい人ではあるんですが。だから、こういうゲストハウスに来れば、そういう新しい友達ができるかも、って。」

ーーー19歳ですでにそこまでたどり着いているの、すごいです。発想も行動力もすごいです。当時の自分には、東京に出るという考えしかなかったので。

「旅行といっても、各自の好みがもちろん違うので、なかなか難しくて。何が好きか、何を見たいか、お金は、体力は...。少し違うかもしれないですが、そういう意味では一緒に旅行できるような気が合う友達がほしいとも言えるかもです。そういう人は、どこにいるんだろう、って。」

ーーー難しいですよね。老婆心ですが、自分の今までの経験上、そういう人は基本的には見つからないものであって、見つかったらラッキー、という種類の存在です。めげずにいろんな人と話をする中で少しずつそういう人を掘り出していく感じかなと。あと、大学入学時と卒業時で好みが結構変化したりもするので、最初は合わないと思った友達でも、いつの間にか仲良くなっていたりしたなあって今になって思います。そういう意味でも、なんというか粛々とやっていくしかないんだろうなという感じです。

ーーーあと、極端な話、どんなに気が合う友達や家族だったとしても、同じものを見た時に自分と全く同じ感情になることはないと思っていて。そこには究極の孤独があると思います。それはなんか、そういうものだと思って、受け入れるしかないのかな、って。

 

 

3時間くらい話していた。印象的だった部分を思い出しながら書いてみた。

 

 

いいな、と思えるものが、大事にしたいものが、とても似ている感じがした。自分があと5歳若かったらSNSのアカウントを教えるとか、なんかしらで繋がりたい、今後もたまに会って話したりしたい、とも思った。でも、だからと言ってここで繋がってしまうのは、なんか違う気がした。一瞬のきらめきでは、ない。

 

 

風景の一部でありたいし、他人の、一瞬のきらめきでありたい。気がした。

 

 

風景の中で一瞬のきらめきになっているのなら、それはとても幸せなことだな、と思う。街を歩いていて見つけた面白いものや綺麗なものは、写真に撮ったり持ち帰ったりすると色を失ってしまっていたりする。その場固有の文脈に置かれて初めて、きらめきを生み出す。逆にだからこそ、その場固有の文脈に置かれて大いなる世界の一部になって、そうして相手に良かったなと思ってもらえることは、とても素敵なことだと思う。そして、風景として振る舞うということ、一瞬のきらめきとして振る舞うということ、それが道のもとに生きるということなのだろうと思う。

 

 

それと同時にね、こういう人たちが、感性を失わずに自分らしくのびのびと生きていける社会であってほしいとぼんやり思う。思うだけで、どうすればいいのかはわからないし、自分にできることはあるのかはわからないけれど、できるのであればその手伝いがしたい。

加えて、自分も含めた地方出身者がどの土地を選んで生きていくか、将来どこで暮らすのか、となった時に、今回のこの方の移動というのはとても面白く、参考になる。得てして東京か地元か、という2択になりがちだけれども、レッドオーシャンブルーオーシャンかは自分次第ではないかとも思うし、そもそも地元ってブルーオーシャンなのか、などいろいろと疑問点はある。自分と親和性の高い居心地がいい環境というのはどこにあるのかを考える上で、東京か地元か、という2択を視野狭窄的に、強迫的に検討してしまいがちだけれども、実際には世界はずっと広くて、ただ単に自分が知らないだけの選択肢がたぶん無数にある。もちろん手を広げすぎて選択肢が増えすぎて逆に途方に暮れてしまうこともあるかもしれないが、それは豊かであるための必要経費として受け止めていくことが大切であって、貧しい2択を前にして悩むことの方がずっと虚しいでしょうと、その後東京に戻るまでずっと頭の片隅で考えていた。苦しいことはつらいことかもしれないが、豊かであるための必要経費、その支払いに耐える強さが欲しい。

 

 

 

 

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2023年9月某日

 

 

京都の水族館で、生きているヤマメを久しぶりに見た。

 

 

斑点の模様が綺麗な美しい川魚で、渓流釣りや釣り堀に行ったことがあれば聞いたり食べたりしたことがあるかもしれない。成魚はだいたいアユと同じくらいのサイズというか、成人男性が手のひらを目一杯広げた時の親指の先から小指の先までくらいのサイズである。たしかそんな感じ。

 

 

 

 

そのヤマメであるが、分類学上はサケ目サケ科に属する。

 

 

サケと言えば、川で生まれ海に降って行き大きく成長したのち、生まれた川に秋に戻ってきて産卵して一生を終える魚である。産卵期のサケはヒトやクマの恰好の獲物である。

ではヤマメはどうかというと、北日本の山奥の綺麗な川で生まれ、基本的には一生の間ずっとその川で過ごす。だがヤマメの中にはサケと同様、海に出て行き大きくなったのち、生まれた川に戻ってくるものがいる。これをサクラマスと呼んでいる。

これ↑を見るともはやヤマメとは別の魚で、ほぼサケじゃん、と思う。川を降って海へ向かう途中で体の斑点模様が徐々に消え、体表が全て銀色に変化し(スモルト化)、海で50センチ以上にまで大きく成長する。かっこいい。そして産卵のために川に戻ってくる際には体中が婚姻色としてピンクに変化し、口先が大きく湾曲する。ますます、サケである。

 

 

ただ、全てのヤマメがこのように川を降ることはないようであって、どの個体が川に残りどの個体が海へ出るのか、などわかっていないことがまだまだ多い。ただし近縁種についての研究によれば、秋のタイミングで一定以上のサイズまで成長できた個体が海に出るようになる可能性があるとのことである。

www.kobe-u.ac.jp

 

 

ヤマメは山奥の上流域に住んでおり、幼魚時代を乗り切れば暮らしている川においてヤマメより大きな魚はほとんどいなくなり、生態系的には川においてほぼ最上位に存在することになる。誰かに食べられてしまうことも少なく、鳥やクマに襲われることがあるかもしれないが、海と比べると危険度は遥かに小さい。ただし、体長はよくて30cmといったところであり、繁殖期には川に帰ってきたサクラマスに文字通り弾き飛ばされてしまい、最後の最後で貧乏籤を引く可能性がある。

 

 

一方、海には危険がいっぱい。ただしエサもいっぱいで、生き延びれば将来安泰。若いうちの苦労は買ってでもしておけ、と言わんばかりのストロングガッツスタイル。サクラマスはハイリスクハイリターンなライフサイクルと言えそう。川に帰ってくれば最強であり、間違いなく世代を次に残せる。川に帰ってくる直前まで生き残るのが大変ではあるが。戦闘民族的なマインドが必要。

 

 

ヤマメでもサクラマスでもない何かって存在しないんだろうか、ぼんやり考えた。

 

 

 

 

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2023年11月某日

 

 

サクラマス、厳しい。心身がすり減り始めて、進路選択を後悔し始めた。

 

 

面白いこともたくさんありそうだし食いっぱぐれなさそうだと思って海に出てみたが、昼は表層で、夜は海底で素早く大量にエサを探すことを命じられた。面白がったり、立ち止まって味わったりする暇はなかった。大学院という川から出てきたばかりで塩分調節がうまくいかないのか、目から謎の水分が無意識に出てくることもあった。その中で、自分は身体をどうやったら大きくできるかには興味がなかったらしいということに気づいた。ただ単にエサの乏しい川にいて、隣の芝が青く見えていただけだった。それよりも、素直で正直でいること、自他の知的好奇心を満たすこと、できないことができるようになって世界の見え方が変わっていくこと、のほうが自分にとってはずっと大事だったということがわかった。そしてそれは、海では叶わないっぽいということもわかってきた。川にいた方が、トータルではキツくとも、そのわずかなきらめきを捕まえることができるのではないか、という気になってきた。それにしても、海って人にいい顔をするのが上手で、物質的には不足はなくて、でも気づかれないように引き摺り込んで他の魚に食わせようとしてくる、そんなところだな、と思うようになってしまった。注文の多い料理店。前は本気で金継ぎ屋さんだと思っていたのに。確かにそういう一面もあるかもしれないけれど。自分に都合のいいところばかり見て、肝心な芯のところを見るのが下手になったかも。

 

 

でも、川にいると食えなくなるどころか水すら干上がって呼吸ができなくなることすらあったとも聞いていて、それはそれでとても不安に感じたのも確かで、じゃあやっぱりどうするんだという。海に出てみよう、と決めるまでもかなり悩んで考えたし、あれはあれできちんと必要なプロセスだったと今でも実際に思う。

 

 

そしてそもそも、海だとか川だとか、安直な2択で苦しんでいるような、そんな気がする。納得のいくすみか、実在するかもわからないどこかがきっとあるはずだと、心のどこかで信じている自分がいる。でも、あるものが存在しないことを言い切ることは、あるものが存在すると示すことよりも難しくて、寿命が無限なら全部体当たりして潰していけばいいけれど、そんなことはできなくて、どうしたらいいかわからない。

 

 

 

 

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2023年12月某日

 

 

わからないことが増えてしまって、抱えきれなくなり、実家に帰ってきた。実家でもできる仕事しかないタイミングで、よかった。

 

 

父が職場で、イクラをもらって帰ってきた。職場のすぐ近くの川で獲れたサケから筋子を取り出して、イクラにほぐしたのだという。Googleマップでその川を見てみたのだけれど、かなり小さかった。こんなところにサケが来たら、元々住んでいた魚はひとたまりもないだろうなと思いつつ、でも遡上したサケは川でエサを食べないしな、などとも思った。サケ、いかついけど川においては産卵特化型で、案外哀しき存在なのかもしれない。海の恵みを身体に蓄えて、文字通り身を挺して川に持って帰ってきてくれる存在。

 

 

 

 

できたてのイクラ、BB弾より大きくてパンパンで、しょっぱすぎずちゃんと味があって、純粋に美味しかった。しっかり海を生き抜くと、それはそれでいいものができるのもまた事実なんだろうと思う。

 

 

 

 

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2023年12月某日

 

 

神保町で買った、手塚治虫の「ばるぼら」を実家にて読んでいる。

 

 



 

 

手塚治虫のスタンス、わかりやすいし、研究と芸術は親和性が高くてありがたい。

 

 

 

 

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2023年12月某日

 

 

相変わらず実家にいる。昨日は日帰り温泉に行ってみたが、単純に気持ちよくて、これからどうするのか、あまり考えることなく終わった。疲れは取れた。

 

 

今日は川が見たくなって、見に行った。いつもの冬よりは少し暖かいものの、基本的に空はどんよりしていて、現実に向き合わないといけないという気持ちになった。でもこれを書いていて、そもそも向き合わないといけないんだっけ、向き合いたいんだっけ、とも思う。どの道に進むにしても、そのために必要なことをなんかこの時間でやれるだろ、という気もしてきている。

 

 

 

 

帰ってくるたびに、あれ、ここってこんな感じだったっけ、と思うことが増えた。身体の大きさも考え方も小さい頃のそれとは異なるので、もちろん感覚の変化はあるし、記憶も変化していてもおかしくない。一方で、それを差し引いてもなお、なんでこれってこうなっているんだっけ、なんか変わったような気がする、という違和感が残ったりする。ちなみにこの川でもサケが獲れる。

 

 

 

 

結論は出ないが、なんとなく、研究に戻るのが良さそうとは若干思いつつ、結論が出ない状況に耐える力が必要だという気分で決着した。これだけを見ると、散々苦しんだ結果その程度か、という気もしてくるけれど、自分としては納得感がある。今後また材料が増えるかもしれないが、現時点ではもう十分に考えたと思う。あとはもう自分ではどうにもならない部分しか残っていないような気がする。途中まで同じ結論に辿り着きそうだったとしても、その時々の運や流れによって、結論は変わるとも思う。今回とて、上司が別の人だったらこんなことにはなっていなかった。

 

 

 

 

納得と諦観は裏表で、それこそが結論が出ない状況に耐える力を支えてくれるというか、天命を待てるように人事を尽くすしかないし、ひたすら考えるというよりは考えるための材料を集め続けるしかない、という気分になってきた。前にも似たようなことを考えていたし、螺旋階段をのぼったりおりたりしているだけなのかもしれないが、また基準点に帰って来れたということを前向きに捉えることにして、今日はもう寝る。

金継ぎの思想と、やさしい日本語

昨年秋に社会人なるものになって以降、諸々を持て余すようになり、結果、狂ったように旅行をしている。もっとも、旅行というかもはや巡検、ひとり修学旅行、ひとり林間学校…...なのだが、ともあれ今回は中国四国の一部をまわっている。

そんな中、どうしても今書いておかないといけないような気がすることがあったので、眠いが書いておく。

 

 

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今日、林原美術館を訪れた。岡山城のすぐそばにあり、ふらっと歩いて行けた。

www.hayashibara-museumofart.jp

 

当初、行くつもりがなかった。というのも名前の通り、林原という名の会社(しかも経営破綻した)が母体の美術館であり、したがって最悪なのだが「どうせ成金の道楽趣味が存分に溢れ出た金ピカ有名舶来絵画みたいなのをこれ見よがしに飾っているだけでしょ」のような印象を抱いていたからである。岡山城と県立の博物館に行って終わりにするつもりだった。

 

しかし、これは完全にこちらの勉強不足であった。岡山城内の想定外に丁寧かつ知的な展示施設ーーー

(これも本当に素晴らしかった。磯田先生という研究者、昔BSの歴史番組によく出ていて、解説や解釈がよく練られていてとても面白かったのだが、その先生が特別監修かなんかで城内の展示施設の構想設計に関わっているようだった。先生は地元が岡山市であり、かなりの気合いを感じた。室町時代の終わりから、岡山というまちがどのようにしてできてきたのか、統治者たる大名の変遷とともに理解できる仕組みになっていた。本筋から逸れるのでここでやめておく)

ーーーの中で、「林原美術館岡山藩主池田家の伝来品を多数引き受けた」「美術館といっても専ら刀剣や襖絵のような古美術を得意としている」という説明を読み、あれ、違うかも、と思って行くことにした。ただ、訪ねてみると、常設展はなく、テーマを決めて企画展をちょこちょこやっている、という感じで、池田家秘蔵のオモロいものを一度に大量に見れるわけではなさそう。

 

ということで、結局どうなんだ、と思いつつ、企画展へ。

現在私たちが鑑賞している美術品は、それぞれの時代の所有者が使用目的に合わせて手をかけ、修理して大切に現在まで伝えられてきました。それはまさにサスティナブル、そう今注目されているSDGsの「使う人の責任で、物を大切にする」ことに他なりません。本展ではこうして伝えられた刀剣や屏風、海外で修理されながら使われた日本の漆芸品などの美術品をご覧いただき、あわせて林原美術館が貴重な文化財を後世に伝えるために修理を行った作品もご紹介いたします。

www.hayashibara-museumofart.jp

 

うお、SDGs。もういいっすよ。

 

となりかけたのだが、改めて心を無にして集中し入場。

 

一番初めの展示品のわきに、やさしい日本語、についての説明がある。

「日本に住んだり日本を訪れたりする外国人が増えてきている中で、本企画展では、多言語化や翻訳のみに頼るのではなく、解説の脇にやさしい日本語ver.の解説を併記するという提案をしたい。」

という趣旨らしい。確かに、日本語を勉強する外国人も増えてきたし、かんたんな日本語での説明文はあるといいかもしれない。

 

なお、やさしい日本語については、東京都のページがわかりやすい。

「やさしい日本語」とは、普通の日本語よりも簡単で、外国人にもわかりやすい日本語のことです。

1995年1月の阪神・淡路大震災では、日本人だけでなく日本にいた多くの外国人も被害を受けました。その中には、日本語も英語も十分に理解できず必要な情報を受け取ることができない人もいました。

そこで、そうした人達が災害発生時に適切な行動をとれるように考え出されたのが「やさしい日本語」の始まりです。そして、「やさしい日本語」は、災害時のみならず平時における外国人への情報提供手段としても研究され、行政情報や生活情報、毎日のニュース発信など、全国的に様々な分野で取組が広がっています。

世界には、多くの言語があります。すべての外国人に対して母語で情報を伝えることが一番理想的ですが、現実的には不可能です。そこで、言語の選択という問題が生じます。

多言語対応協議会では「多言語対応の基本的な考え方」を2014年に定め、「日本語+英語及びピクトグラムによる対応を基本としつつ、需要、地域特性、視認性などを考慮し、必要に応じて、中国語・韓国語、更にはその他の言語も含めて多言語化を実現」とし、取組を進めています。

しかし、言語の中でも難易度があるため、とりわけ、多くの外国人が理解できる日本語においては、できるだけわかりやすい情報発信(「やさしい日本語」)が求められています。

今、期待を集めている「機械翻訳」においても、いったん分かりやすい日本語に直してから外国語に訳した方が意味の通る訳文になります。「やさしい日本語」は、そのような効果も期待されます。

「会話」で伝えるときだけでなく、看板等の「表示」によって伝えるときも同様です。相手に外国語で伝えたい内容は、わかりやすい言葉から考えることによって、より伝わるものとなります。

そのように「やさしい日本語」を基本に置くことで、正しい外国語の表現にもつながっていきます。

「やさしい日本語」について | 2020年オリンピック・パラリンピック大会に向けた 多言語対応協議会ポータルサイト

 

いつものことだが前置きが長い。でも必要だと思うから書いている。すみません。

 

 

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企画展のポスターにも掲載されている、キュレーターイチオシと思われる刀の前に到着。

穴が3つ空いているところが持ち手の部品がハマるところで、その右が刀身。なのだが、その根もと(握った時に手のすぐ上に来るあたり)に、不動明王が彫り込んである。

 

刀は、人を殺めるために使う物であり、同時に自分を守るために使う物でもある。したがって、不要なものは極限まで排除し、文字通り命を預けることになる。しかし、不動明王は残されている。とすると、この刀にとって、刀鍛冶にとって、所有者にとって、不動明王は必要な存在だということになる。不動明王にその炎で全てを焼き払ってもらって、煩悩を断ち、目の前の生き死にのみに集中する必要がある。不動明王なりのご加護を纏いたいのである。

 

しかし、上の写真でもわかるかもしれないが、刀に彫られた模様を見て、精緻な不動明王が彫られているなぁ、とはならない。輪郭がなんとなくわかる程度である。もっとも、作られた当初はもっと不動明王らしかったかもしれない。だが、刀を刀として使い続けるためには斬れ味を維持すべく磨き続ける必要がある。磨くことで、刀は斬れ味を取り戻し、擦り減る。不動明王も、擦り減る。

 

通常ver.の解説文では、摩耗したが微かに最低限残されている不動明王の模様を「物を大事にする心」としていた。でも、うーんまあ確かにそうなんだけど、しっくり来ない。どちらかと言えば、「刀を刀として、道具としてきちんと使い続けるためのメンテナンスをすること」と、「不動明王のご加護が消えないようにすること」の、両立の難しさ、苦悩、葛藤などなどを、感じる。どう乗り越えるのか、という部分が気になる。本当に物を大事にするのであれば、メンテナンスも必要だし、不動明王も残さないといけない。

 

それで、やさしい日本語ver.を見てみる。最後の一文は、

「この刀は 神様が 消えて無くならないように 大切に 磨きました。」

となっている。

 

思わず、涙が出てしまった。いい大人だけど。

 

こんな、シンプルな言葉が、こんなに胸を打つことがあるだろうか、こちらの直感を言い当てることがあるだろうか。「物を大事にする心」というワードは、やさしい日本語ver.には登場しない。

「消えて無くならないように」とはあるが、事実としては現に不動明王の模様は消えかかっている。相反する現象を前にして、どちらかしか救えない状況で、では人は、どう生きるのか。人を殺したくはないが、目の前の相手を殺さないと自分が、家族が殺される、そのために刀を使ってどう生きるのか、というのと同じである。

不動明王の模様は薄くなるが、それでも「大切に磨く」ことが、大事なのである。削れて、なくなってしまうかもしれないけれど、でも大切に磨けばきっと、不動明王を大切に思う心はなくならない。ここに、磨き手と不動明王のあいだに、ある種の祈りとあたたかな赦しがあると、自然と思われた。

 

これが、やさしい日本語、である。

 

 

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続いて、こちら。能装束。(紅白段桜花文摺箔)

もとはツートンというか、片身替りといって半身が白で半身が紅のデザインの小袖であった。それを能装束に作り換えたもの、とのことである。作り換えた際に、胸より下の部分をたがいちがいに入れ替えている。着なくなったものを捨てずに再利用している上に、うまく使って新たないいものを作り出している、とのこと。たしかに。

 

では、これもやさしい日本語ver.ではどうなっているかというと、「姫君が着なくなった着物を斬新なデザインで作りかえました」という流れに引き続いて、最後の一文は、

「ぶたいでは その方が きれいに見えます。」

だった。

 

これもかなりやられた。

 

もはや事細かに書くのはやめるけれど、何かとても純粋な、いいものを作りたいという思いのようなものを感じた。加えて、生まれ変わった着物が能舞台のうえでいきいきと、凛としているシーンがわーっと浮かんできた。これは、実物を見ないとわからない気がする。すみません。

 

 

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斬新なカッコいいものをゼロから生み出して世の中を変えていくのはもちろん素晴らしい。でも、「今すでにこの世に存在している素晴らしいもの」の持つ価値を、じゅうぶんに発揮し続けさせることも、また等しく重要だなと思う。

 

上では触れなかったが、展示品には金継ぎされたお皿もあった。いくら絵柄が素敵でも、割れてしまったらお皿としての実用性はなくなってしまう。それを少し直すことで、また元のように、でも少し前とは違うかたちで、また新しく、かつ引き続きやっていくことができる。刀と不動明王に関しては、それがとても難しかったが道を見つけたということ。能装束に関しては、大幅に作り換えることで新しいとてもいいものができたということ。

 

今いる会社にも、そういう思想があるような気がする。というか、あると思ったから説明会に行き、受けた。研究者を目指す中で、一流の研究者たちがパパたるお国のお偉いさんたちから新奇性ばかりを求められ、社会を変革していくことばかりを求められているのを嫌というほど見た。でも、新発見や革命だけが全てじゃないよな、とずっとモヤモヤしていた。そんな中で今の会社に出会って、こっちかもしれないと思った。

 

一般論として、いくらいい技術や飯の種があり地域の雇用の受け皿であっても、赤字や不正が頻発するようではやがて立ち行かなくなる。そういう会社が立ち直っていくためのお手伝いを一緒に苦しみながらやっていく、ということ。そして、立ち直ったらまた新しいことができるし、もちろん引き続き以前の価値を発揮し続けることもできる。うちは金継ぎの会社だったんだな、自分は金継ぎがしたかったんだな、などと思った。隙自語。

 

 

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最後に、やさしい日本語について。

たぶん、やさしいという表記なのは、優しくも易しくもあるから。そして、テクニックやエゴを振り回して、表現を可能な限り着飾らせるよりも、相手のことを思いやってできるだけわかりやすくするという過程を踏む方が、結果的に表現が洗練されて胸を打つもの、真ん中をぶち抜くものが生まれるのではないか、ということをもっとよく考えていきたいなと、つくづく感じた。外国人うんぬんではなく、やさしさは、シンプルに強い。

 

 

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ちなみにこの企画展、11月までやっている。逆に言えば、11月で終わってしまう。

たくさんの人に来てもらって、何かを感じてもらえたらいいな、と思う。