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2024年7月某日
先日、四国に行ってきた。高知と愛媛を中心に行ってみたいところがいくつかあり、いつものようにフラフラとまわってきた。
道中、自転車で四万十から宇和島に抜けつつ、梼原に寄ることにした。以前から気になっていた町だ。ゆすはら、と読む。


さっきまで晴れていたかと思えばすぐ雨が降る。
梼原、アドレスとしては一応高知県でありつつ、愛媛と高知の県境の香りがある。自転車で走っていると、高知でも愛媛でもなく、強いて言えば中央構造線沿いの雰囲気なのかな、厳密には違うのかもだけれど、という感じ。ちなみに、梼原町立歴史民俗資料館の展示によれば、梼原は高知の中心地からは遠く、むしろ古代から愛媛とのつながりの方が強かったとのこと。町の北側にある三嶋神社も、愛媛今治・しまなみ海道の大三島にある大山祇神社(大三島神社)を分祀したものだとかで、要は町の守り神が愛媛由来、まあそんな感じ。

三嶋神社。

三嶋神社へ続く木の橋。

梼原は木の町なんだそうで、木を効果的に使った隈研吾の作品たる建築物(この三嶋神社の橋はそうではないが)を町のあちこちで見ることができる。いささか町おこしの香りが強いわねと思いつつ、今回の本題からは逸れるのでそのことについてはここではあまり触れずにおく。
建築家の隈研吾についておさらい。この梼原という町に来てから作風が変わったとのこと。町のあちこちで同じような記述をたびたび目にした。
初めは猫好きゆえに獣医を志していたが[11]、家屋の修繕をするデザイン好きの父親に付き合ううちに、建築に興味を持つようになる[9]。大田区立田園調布小学校に通っている時、1964年(昭和39年)の開催を控えた東京オリンピックの建築物を目にし、いよいよ本気で建築家を志すこととなった[8][12]。
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大学院で修士論文を書いていた時期に、同級生の多くは当時話題の新鋭・安藤忠雄に憧れていたが、隈はその逆を行くことを選択し、アトリエ系事務所ではなく、社会に揉まれるためにと大手設計事務所の日本設計に就職した[17]。
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初期はドーリック南青山ビルやM2ビルなどポストモダニズムに一部脱構築主義要素を加えた建物を発表していたが、高知県高岡郡檮原町の「ゆすはら座」存続への関わりをきっかけとして[22]、木材などの自然素材を生かした建築や、縦格子を多用したデザインが特徴的な作品を多く手がけるようになる。
木材を多用するようになったのは、阪神・淡路大震災(1995年)と東日本大震災(2011年)を見て、コンクリートなどの人工物で自然に立ち向かおうとする20世紀の思想が破綻したと感じたためであると回顧している。森林を手入れして生み出す木材は、人間と地球をつなぎ合わせる存在と位置付けている。また大型の公共建築物が「税金の無駄遣い」「環境破壊」と批判されるようになった時代に育ったうえ、経済成長の鈍化と高齢化が進んでいる日本の現状を見据え、周囲に調和した「負ける建築」や、「コンクリートと鉄の時代」を「木の時代」に変えることを志向している[23]。
(Wikipediaより)
その、影響を受けたというゆすはら座がこちら。


1階部分。ちょっとした体育館のよう。おそらく、椅子を並べて壇上をのぞむのだと思う。

2階部分。こちらは桟敷席がついている。
決して大きく広くはないけれど、でも町の規模を考えればおそらく必要十分なもので、実用的な感じがあり、好き。アームチェアに座って頭だけで考えたような鉄筋コンクリートのビルが実需を上回る形である種競争的に建てられていくのを近くで見ていた人の考え方が、このゆすはら座での体験前後で変わるというのはわかるような気がする。
不意に、建築家になりたかった時期が自分にあったことを思い出した。

『雲の上のギャラリー』。隈研吾の手がけた、梼原の建築物たちについての解説がある。
本当に小さかった頃は恐竜や虫が好きだったものの、それ以降は興味の幅が発散して半ば収拾がつかなくなっていた。勉強も好きだったが、勉強も含めたそういった博物学的・探究的行為が何らかの仕事に直接つながるようなイメージがなかった。仕事というものは自分が面白いかどうかはそんなに重要ではなくて、なんかこうもっと辛くて大変で、でもちゃんと他人のためになるものだ、というようなイメージがぼんやりとあった。自分のなかでは、勉強はあくまでもある意味で道楽とでも呼ぶべきものだった。
そういう経緯もあり、将来のことを一応考えたりする中で、中高の頃は建築家になりたいと思うようになっていた。そういう時期が長かった。地元に残って医療関係の仕事をしなよ、と高校の担任は面談のたびに言っていたけれど、あまりにも道楽成分が少なそう(こういうことを言うと怒られそう)だし、そもそも小さい頃は病弱で、病院が嫌いだった。それで、仕事をするならものづくりとデザイン方面の何かがいいな、と思っていた。で、それって建築なのかも、みたいな。実体のあるものを手を動かして作りつつ、自分の考えていることを世に向けて表現することもできて、それでいて人のためにもなる。大変だがやりがいがありそう。加えて自分は日本の歴史もかなり好きで、建築関係の仕事に就けば神社仏閣の補修や保全にも関われるかもしれないとも思っていた。

一方で、建築家という仕事について何となく調べてみると出てくるのはだいたい安藤忠雄や隈研吾だった。何となく、の程度なのでまあそのあたりの有名どころが出てくるのである。でもしかし、彼らの作品たる建物たちの写真を眺めながら建築士の一般的な進路というか人生を調べていると、建築士になってもこの手のやりたいことができるようになるのは一握りなのかもしれないと当時、思った。仮に頑張って建築士になれたとしても、その先については自信がなかった。模試の結果だけ見れば百万遍の大学の建築学科にはまあ行けそうな感じだったものの、結局踏ん切りがつかず、学部選択を先延ばしにできる大学に1年遅れで入った。
大学2年生の夏に学部を決めるとき、提出した最終候補の中に建築学科は入っていなかった。その時に決めて進学した学部学科の大学院に行き、現在もその延長で仕事?をしている。建築士にはなっていないものの結局まあまあ(あるいはそれ以上に)茨な感じ(と言いながらフラフラ旅をしたりこんなものを書いたりしている)で、そういう意味では仕事として扱う対象は違えど高校生の時に考えていた問題点はそのまま残っているとも言える。

雲の上の図書館。個人的には思うところがないわけでもないが。
昔と今で違うところがあるとすると、経験に基づく納得の量。高校生の頃は働いたこともなかったし、話を聞ける大人は親か先生くらいしかいなかった。でも今では、働いてみて辞めてみたり、いろんな人と会って話したりする中で、今の選択が現時点での結論だと思えるようになってきた。だったら茨だとか一握りだとかそんなこと言ってても始まらないし、まあやるしかない、なんならありがたいことに環境的には結構恵まれているっぽいし、という感じになってきた。考えることは一通り考えたので、あとは頭を適度に空にして、目の前のことを大切にした方がいい。
こんなアホみたいな旅ばかりしているけれど、自分にとって、旅とは自分の中にたまっているものを熟成、あるいは供養していく行為だなと感じる。梼原以外にも四国のあちこちをまわったが、とりあえず流れ着いたところをまわってみるというよりはどこも一度行ってみたいと前々から思っていたところばかりで、初期的な”見たいものリスト”とでも言うべきものが何となく自分の中にあった。つまり、特定の場所に行ってみたい、と思う時点で既に、自分の中には比較的長い期間を経てたまっていたその土地に関する予想しかり仮説が何かしらできていて、それらの是非を確かめに行く感覚。もちろん未知のものに出会いたいという思いもあり、それがメインの旅もないことはないけれど、仮説や予想を持ってのぞむときの方がより深く潜っていける感覚があるというか、未知のものに出会った時の鮮やかさもその方が大きくなるような気がしている。自分のなかのことについても同じで、知らず知らずのうちに長い期間を経ていろいろなものがたまっていき、それが今回はたまたま旅先で不意に立ち現れて、反芻されながら新しいかたちを持つようになっていく。
自分の中にたまっているもの(その総体が自分自身ということになるのかもしれないがそれはともかくとして)というのは、そのままではかたちが曖昧で、あたかも波打ち際のように、渚のように、状況や気分によって揺らいでいる。満潮の時もあれば、干潮の時もある。10秒前には乾いていたところに波がやって来て、足首まで浸かったりする。そしてまた沖へと引いていく。マクロに引きで見ると海岸線というものはあるが、ミクロにすぐ近くで見ると波打ち際というのは刻一刻と微妙に振動していて、海にも陸にもなる部分、渚、を持っていることがわかる。
旅先で目の前のものに集中しつつ、一方であったかもしれない人生のことについても考えていると時間が飛ぶように過ぎていく。過ぎていくが、その時間が好きで旅をしているのかもしれない。例えば旅を一つのトリガーとして、ふっと目の前のものから離れて熟成や供養のフェーズに一時的に入ることは、別にネガティブでも閉じているのでもなくて、地殻変動によって海岸線がリアルタイムで変わっていくのをフラットな気持ちで眺めるようなものなのだろうと思う。

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2024年7月某日
およそ一週間の四国めぐりを終え東京に戻った翌日、母校の高校生たちと話す機会があった。
かつて自分も高校生の時、彼らと同じように希望者のひとりとして高校単位で東京に社会科見学に行き、企業にお邪魔して高校OBの方々(そんなに多いわけではないが)の話を聞いたり、高校OBの大学生と話したりした。ひるがえって、今の立場になってからは東京にて彼らを歓迎する側として、なんだかんだ縁あってほぼ毎年高校生たちと話している。
彼らと何について話すかは一応フリーということになってはいるものの、主催者たる高校側のスタンスとして、受験勉強のやり方、受験の実際、大学のこと、研究のこと、就職のこと、将来のことなどを高校生に話してほしいというのもある。一方で来てくれた高校生たちがどんな感じかというと、中には2年生もいるものの、ほぼだいたい高校1年生。初めての定期試験・期末試験を終えひとまず夏休みを迎えたばかり、といった感じらしい。高校の定期試験は中学のそれと比べるとやっぱり難しく、部活にもそれなりに時間を割いているためそんなに上手くいかなかったとのこと。そうだよね。したがって、これはもうしょうがないのだけれど、どうやって部活と勉強を両立してましたか、とか、今の時期に何を頑張ったらいいと思いますか、みたいな、比較的直近の大変さをどう乗り越えたか聞いてみたい人がほとんどで、それらについて一つずつ思い出しながら答えていくことになる。一方で高校側のスタンスをある程度満たしていく必要もありながら持ち時間も限られているので、将来どうしたいの、とか、どんな大学に行きたいの、とか、模試でどんな大学を書いているの、とか、遠くのことについては、高校生側からなかなか出てこないこともあり、少しずつこちらから聞いていくようにする。これもまたかつての自分がそうだったように、よくわからないです、決められません、とモジモジしてはにかむ人がほとんどである。ちなみに、この感じの高校生の割合が年々大きくなってきている感覚がある。
”””でもそれでいいと思う。自分も結局決められなくて、決めるのが嫌で、入学後に柔軟に専門を決められる大学に無理して入った。全員がそこまで極端なことをする必要はないのかもしれないけれど、でも少なくとも、高校1年生の段階で10年後の自分の職業を意識して、そこから逆算して大学や学部を決めようとするのはナンセンスだと今でも思う。というか、大学に入って就活をしてから初めて知る業種や企業の方が多いし、自分は一体それらのどこと適性がある、ありそうなのかを見極めるのは大学生でも苦労する。そもそも、理想を言えば就職とか将来とか一切関係なしに、勉強してみたいことや知りたいことに近づける大学や学部を選ぶのが良いはずだし。自分との適性や小さい頃からxxxやyyyになるのが夢だったんです、みたいな人以外はまあ悩むよね、という。
これはみんなの年齢ではまだ実感できないかもしれないけれど、みんなはとても未来ある若者で、同時に未来のことがよくわからない若者でもあって。じゃあどうしたらいいのか、未来とはそもそもなんなのかというと、インドに行って人生観変わりましたとかそういうことをやらない限り、未来は現在の延長にしかないというか、目の前のものを大事にするしかない気がする。目の前のものをよく見て、これは好きだなとか、嫌だなとか、どうしてそうなっているんだろうとか、そういうことを考え続ける。目の前のものを大事にするというのは多分そういうことで、目の前にあるものたちを素直な心で見比べて、差異をしっかりつかんで、何がどう違っていてどこが好きなのか、一つ一つ記録して積み上げていった先に、少し先のことが朧げながら見えてくる、そんな感じじゃないかと思う。周りを見ていても、自分も含めて全てがプラン通りに進むことはなく、そうだとしてもその都度目の前のことをよく見て軌道を調整して、目の前の人やものを大切にしている人は、今では高校の時に比べてみんないい顔をしているような気はする。””"
というような話に最終的になっていった。なっていきながら同時に、そうやって積み上げ続けてある程度納得感のある方向性が見えてそちらに進んだとしてもなお、あったかもしれない未来について考えざるを得ない瞬間が事後的に不意に訪れることは何度もあるし、その度に護岸工事をしたり放水路を掘ったりする必要が出てくるんだけどね、と喉から出そうになった。
そろそろ、自分がしゃべるのではなく、護岸工事をしたり放水路を掘ったりしている先輩方の話を聞く側になりたい。
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2024年8月某日
帰省している。母に用事があり夜に家にいないとのことで、父と飲みに行こうと前夜に決めた。せっかくなので、父との合流前に、昼のうちから海や街をフラフラすることにした。


太平洋側は台風やらなんやらで大変らしいけれど、全く気配がない。昔はよく釣りをしに来ていたものの、釣りをしなくても楽しいというか、単純に気持ちがいいんだなと思った。堤防の上から小魚の群れを見ているだけでも十分。
その後は前から気になっていたカフェ図書館に。元は建築設計事務所の私設図書館のようなところだったのを、カフェ併設型に改装したのだとか。タイミングが合えば、建築模型を作っているところを見たりできるらしい。

クリームソーダを頼み、本棚から面白そうな本をピックアップ。建築関連の本に限らずいろいろ置いてある。白洲正子の本をまとめている棚、好きだった。

仕事関連のタスクがひと段落したので休憩がてら本を開く。開くが、白洲正子の本と言いながらしばらく青山二郎の話が続く。ある種ブルバキ的というか、作者とはこの場合単なる預言者にすぎないというか、語られていることは個人の主張というよりむしろ界隈やサロンにおける語りの一部がポロッとこぼれ出たようなものであって、今回はそのボスが青山二郎だということを思い出すなどする。
人間でも、陶器でも、たしかに魂は見えないところにかくれているが、もしほんとうに存在するものならば、それは外側の形の上に現れずにはおかない。それが青山二郎の信仰であった。「『形と色の奥に秘められた何物かを掴みたい』と夢二は言つたさうだが、歌麿は言はなかつた」と彼は書いている。むろん『聖衆来迎図』や『山越の弥陀』の作者たちも言わなかった。そういう意味で彼らは真のリアリストだったのである。
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何事につけジィちゃん(青山二郎)は、「意味深長」という言葉を嫌っていた。精神は尊重したが、「精神的」なものは認めなかった。意味も、精神も、すべて形に現れる、現れなければそんなものは空な言葉にすぎないと信じていたからだ。
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お茶は「わび」の精神の蔭にかくれ、お能は「幽玄」の袖に姿をくらまし、お花の先生は蜂みたいに花の「心」の中で甘い汁を吸う。形が衰弱したからそういうところに逃げるので、逃げていることさえ気がつかないのだから始末に悪い。
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ある日、壺中居で、私が生まれてはじめて買ったものは、よく知っている中国陶器ではなくて、紅志野の香炉であった。(中略)見せた時も、「フン」といったきり、もう済んだことだと言わんばかりに無視された。小林さんとちがって、私には何一つ教えてはくれず、放っといて勝手に買わせるというやり方で、戦利品を自慢して見せに行くと、「なんだこんなもの、夢二じゃないか」と馬鹿にされた。夢二の絵のように、空ばかり眺めて美にあこがれている、要するに、頭脳の所産ではないか、というのである。
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「美なんていうのは、狐つきみたいなものだ。空中をふわふわ浮いている夢にすぎない。ただ、美しいものがあるだけだ。ものが見えないから、美だの美意識などと譫言を吐いてごまかすので、みんな頭に来ちゃってる」
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海でのんびりしたりタスクを消化したりしていた関係で思ったより時間がなく、本を棚に戻し、街に出て父と合流。晴れの日は少ないものの、海がきれいで日本酒がおいしい土地に生まれてよかったな、と思う。



店を出て、散歩がてらいろいろ話しながら歩いて帰った。地元に残っていたら、引き続きどこか鬱屈とした感じのままだっただろうな、そういう意味でも東京に出てよかったよね、という話をした。こんな感じで楽しく飲めるようになってくれて嬉しいと言われるのはこちらも嬉しい。人生は長い。
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2024年8月某日
祖母に会いに行った。
1年ほど前からひとりで暮らすのが大変になってきて、現在はグループホームで暮らしている。最後に会ったのはグループホームに入る前、去年の正月。ホームの方曰く、コロナ対応で15分のみの面会だとのこと。面会って言うとなんか病人や受刑者みたいでちょっと嫌だけれど。
両親(すなわち祖母の息子夫婦)はちょくちょく顔を見せに行っているので、その二人のことはまだ覚えている。けれど、こっちを見て、ちょっと戸惑ってはにかんで、「ごめんけど、この人は誰らろっかね......」と。両親と3人で、「孫ですよ、孫〜」とやってみるも、結局最後まで思い出せず。ショックがないとは言わないまでも、ある程度予想はしていたしそういうものなのでまあね〜という。ただ、おもしろかったのがここからで。両親が祖母に話しかけたときと、自分が話しかけたときで、様子が不思議な感じで違うのだ。
両親が話しかけたときも両親と目を合わせないわけではないが、自分が話しかけたときの方が明らかに目が大きくなっていてこちらを見てくる。両親が話しかけたときと、自分が話しかけたときで、会話のつながり方に差がある。両親が話していることは半分くらいしか理解できていないみたいなのに、自分が話すことはわかるようで、話がつながっていく。もちろん、両親の話や声には主語がなかったり声がところどころ小さくなったりするところがあって話がややつかみにくいのかもしれない。でも、目を見ていると、そういうことではないような気がする。
繰り返しになるが、両親のことは覚えている。両親と話すとき、当然両親の性格や今までの付き合いなど、両親についてのいろんなことが頭の中を駆け巡り、それらの情報が会話の内容自体を押しのけてしまっている感じがする。それは別に父や母のことが根本的に嫌いだとかそういうことを言っているわけではなく、例えば父に話しかけられた瞬間ふっと5年前の父との苦いやり取りが思い出されて、その一瞬、意識が現在の会話から脱落する、とか。広く言えば、バイアスということになるのだろうか。バイアスのせいで、ハナから話を聞く気がない瞬間も、多分ある。
一方、孫である自分のことは覚えていない。覚えていないから、会話の内容を邪魔する事前情報がない。なのでバイアスが多分存在していなくて、逆説的なことに、かえってクリアな状態で話ができる。目もかっと開いて、こちらを見つめてくる。誰なのかわからないんだけれど、でもちゃんと話を聴こうとしてくる。(別の見方をすれば、「孫の顔を忘れてしまった」ということで頭がいっぱいになって話ができなくなっているわけでもなく、その面でも頭がフラットになっているのはなんかすごいと思う。)
これってついこないだ読んだ青山二郎じゃんね、と思った。
うまくものが見えるとき、うまくものを観ることができるときというのは、目の前のものから離れてあれこれ彷徨っているのではなく、目の前のものに集中しているとき。
同時に、忘れたことで逆に新しい関係を上手に築くことができるのだとしたら、それは生まれ変わるということでもあるというか、前向きなことなのかもしれないとも思った。あまり悲しんだりせず、こちらも頭をクリアにして向き合うことが、祖母との時間を大切にするということなのだろう。
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2024年8月某日
再び、先日訪れたカフェ図書館へ。前回読みきれなかった本たちをしっかり読みたくなった。
前回はレモンのクリームソーダだったのだけれど、今回はメロンのクリームソーダに。それとベーコンエッグのセット。でもサラダが実は一番おいしかった。


前回好きだった白洲正子の本棚。
来館者の絵日記もある。

面白かった点を少しずつピックアップ。
1冊目、カフェの空間学。
外観写真と図面のスケッチがたくさん載っていて、それを眺めるだけでも面白い。30あまりのカフェを取り上げて、それぞれが街や人とどう共存して関わっていこうとしているのかを考察している。
book.gakugei-pub.co.jp
閑話休題のコラムで語られる、”際”の設計が面白い。
設計者なら誰でも、場所とのかかわりを考えながら設計しているだろう。僕は、常に”ひらくこと”を意識している。
(中略)
特にカフェにおいては、商業施設としての顔先や中身を考える前に、街や通りと建物や空間が分断しないようなあり方を大事にしたいと思っている。それは、僕がそもそもカフェという場を、ただコーヒーを提供したり、一息つくためだけの場というのではなく、バリスタや客、地元の人や遠方からの人などという、所属や立場に関係なく、コーヒーを通じてそれぞれにとって特別な体験ができる空間であってほしいと考えているからだ。
例えば、外からも内部の営みが感じられたり、通りと一体化したかのような空間づくり、これを「際の設計」と呼んでみることにする。
(中略)
際の設計のためには、まず場所の特性を見出す必要があるが、中でも「変えてはいけないもの」の判断が重要になる。このために、初めて現場を見に行く時はいつもピュアな気持ちで臨むように心掛けている。
つまり、際とは渚のことだということになるのではないだろうか。外でも内でもなく、同時に外でも内でもある。その、際=渚を設けておくことで、海と陸が行ったり来たりできる。コーヒーショップが通行人に”ひらかれる”ことになる。自分の中にたまっていたものたちの熟成あるいは供養が進行し、新しい海岸線ができていく。
そして、際が際として強化されるように設計するためには、その場所を「ピュアな気持ちで」眺めて、どうしたら際が際であれるのか、際の源はなんなのか、見出すということが求められるという。これも、青山二郎に通ずるところがあるように思う。自分がやりたいことや、自分の思い込みをいったん捨てて、対象をよく観る。よく観ると、その場所の”渚性”の成り立ちが見えてくるので、それを引き出して強化するように、設計を進める。
やっぱり、建築士になる人生もそれはそれで面白かったような気がする。
2冊目、大倉宏、東京ノイズ。東京で学び、また戻ってきた美術評論家のエッセイ集。
niigata-eya.jp
こちら、原文をそのままメモしたわけではないのだが、東京には画廊が多く、地元には画廊が少ないのだと言う。美術館側の人間は立派な美術品を購入してせっかく展示してもお客さんが全然来てくれず困っていると言っているが、それは画廊が少ないからだと言う。たいていの日本人にとって、美術品というものは高尚なものというか、それこそデパートで最低でもウン十万円で売られているようなものであって、自分とは関係のない遠い世界のものになってしまっている。もちろん、日常的に規模はどうあれ絵を描いたりしている人もかなり少ない。そこで、ひとびとと美術館を繋いでくれるのが、画廊である。画廊それ自体に入場料はない。絵を見るだけのためにふらっと入ればいい。ただし絵に値段もついているので、欲しくなったら買うこともできる。美術館よりも気軽に入ることができて、気に入ったものは自分のものにすることができる。美術館だけにたまに行くだけではこうなることはなく、美術が、より身近になる。
画廊も、渚に見えてくる。
3冊目、白洲正子、器つれづれ。先日も読んでいた。
www.sekaibunka.com
引き続き、青山二郎について。
「わかるなんてやさしいことだ。むずかしいのはすることだ。やってみせてごらん。美しいものを作ってみな。できねえだろう、この馬鹿野郎」
そういいながら、傍らのコップを指先で叩いてみせる。
「ほら、コップでもピンと音がするだろう。叩けば音が出るものが、文章なんだ。人間だって同じことだ。音がしないような奴を、俺は信用せん」
小林秀雄について。
『当麻』という作品の中に、次のような言葉がある。
美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。
これは世阿弥の「花」について語ったもので、その前に、「物数を極めて、工夫を尽して後、花の失せぬところをば知るべし」という『花伝書(風姿花伝)』の一節があるのだが、この美しい「花」を、「物」に置き換えてみれば、小林さんが美についてどういう考えを持っていたか、知ることができる。
ーーー「美しい物がある、物の美しさという様なものはない」。そこには叩けばピンと鳴る手応えがあるだけで、あいまいなものは何一つ認められない。物の美しさについて、人はきりなく喋ることができようが、美しい物は沈黙を強いる。小林さんは終始、そこだけに焦点をしぼって書いた作家である。相手は骨董でも文学でも絵画でも変わりはなかった。沈黙したものを対象に、無理に口を開かせようとはせず、我慢に我慢を重ねてつき合った後、向こうが自然に秘密を明かす時まで待つ。
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青山二郎さんは、『眼の引越』という著書の中で、小林さんと骨董の出会いについて、実に生き生きと描いている。(中略)小林さんはいつもつまらなそうな顔をして、別室で本ばかり読んでいた。ところがある日、(中略)ふと買う気になった。それは少しも骨董臭のない、健康で正直な姿をしており、陶器を観るなぞと特別思わないで、そのままぴたりと「感じ」が来たのであると、青山さんは記している。
それからは師匠と弟子との競争になった。ふつう骨董というものは、「感じ」から「感じ」へ渡り歩いて終わるのが落ちであるが、そんな所でうっとりするような小林さんではなかった。二、三年も経つと、「感じ」から今度はほんとうに「物が見える」ようになり、「『買つた!』と言ふのは小林の得意な叫びになつて、当時の道具屋を感激させたものである」
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骨董は買ってみなければ解らないという。(中略)いつも先の方だけ見て、過去を振り返ることをしない人であった。一旦買って自分の物にした骨董は、極端なことを言えば、もう用はなかったのだ。小林さんが歴史を重んじ、古人を尊んだのは、過去を振り返ったわけではない、「僕は、ただある充ち足りた時間があつた事を思ひ出してゐるだけだ。自分が生きてゐる証拠だけが充満し、その一つ一つがはつきりとわかつてゐる様な時間が」。骨董の場合も、その例を洩れない。骨董を買うということは、小林さんがある充ち足りた時間を確実に生きていることの証しだったので、美術をゆっくり鑑賞する暇なんてなかったのである。
中途半端な解釈をゆるさない、追随をゆるさない、そのラインまで持っていく。あるいは、持って行かれたものをじっくり見る。頭でこねるようなところは卒業して、その先の、ある種の身体性とでも言うべき、修行による慣れの境地にたどり着いて、そこでその境地にたどり着いた人だけに見えるものが見えて、「ユリイカ!」となる体験のすばらしさ。 ゾーン。そうなってしまえば、そうなることができてしまえばもう、あとのことはどうでもいい。これまで生きてきてこのゾーンに入ることができたのは両手の指に収まらないくらいの回数しかないけれど、そんな程度の自分でさえ、これは麻薬的だと今でも思っている。加えて、学習にもしも本質があるならばそれは、型を学んで再現できるようになること以上に、型を学んだ上で差異を認識できるようになることだと思う。そして、その"ちがい"を喜べるようになることを、心が豊かになったと呼ぶのだと思う。
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ここまで散々書き散らしておいてなんだけれども、この文章自体、渚という仮説をバイアスとして働かせて書かれているような気がする。加えて、旅というものは振り返るべきものではなく、その瞬間における没頭性にこそ全てが詰まっているのだとすれば、この文章の前半部分などに意味はほぼないのかもしれない。一方で、旅先で目の前のものからいったん離れて熟成と供養を行うことは必要だがそれを意識下で行うのではなくて、無意識下で処理させておくべきというか、勝手に処理されているから安心して目の前のものを見るのが良いということなのかもしれない。
いずれにせよ、充ち足りた夏だったことに間違いはなく、一周まわってそれをしっかり抱きしめているところである。