金継ぎの思想と、やさしい日本語

昨年秋に社会人なるものになって以降、諸々を持て余すようになり、結果、狂ったように旅行をしている。もっとも、旅行というかもはや巡検、ひとり修学旅行、ひとり林間学校…...なのだが、ともあれ今回は中国四国の一部をまわっている。

そんな中、どうしても今書いておかないといけないような気がすることがあったので、眠いが書いておく。

 

 

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今日、林原美術館を訪れた。岡山城のすぐそばにあり、ふらっと歩いて行けた。

www.hayashibara-museumofart.jp

 

当初、行くつもりがなかった。というのも名前の通り、林原という名の会社(しかも経営破綻した)が母体の美術館であり、したがって最悪なのだが「どうせ成金の道楽趣味が存分に溢れ出た金ピカ有名舶来絵画みたいなのをこれ見よがしに飾っているだけでしょ」のような印象を抱いていたからである。岡山城と県立の博物館に行って終わりにするつもりだった。

 

しかし、これは完全にこちらの勉強不足であった。岡山城内の想定外に丁寧かつ知的な展示施設ーーー

(これも本当に素晴らしかった。磯田先生という研究者、昔BSの歴史番組によく出ていて、解説や解釈がよく練られていてとても面白かったのだが、その先生が特別監修かなんかで城内の展示施設の構想設計に関わっているようだった。先生は地元が岡山市であり、かなりの気合いを感じた。室町時代の終わりから、岡山というまちがどのようにしてできてきたのか、統治者たる大名の変遷とともに理解できる仕組みになっていた。本筋から逸れるのでここでやめておく)

ーーーの中で、「林原美術館岡山藩主池田家の伝来品を多数引き受けた」「美術館といっても専ら刀剣や襖絵のような古美術を得意としている」という説明を読み、あれ、違うかも、と思って行くことにした。ただ、訪ねてみると、常設展はなく、テーマを決めて企画展をちょこちょこやっている、という感じで、池田家秘蔵のオモロいものを一度に大量に見れるわけではなさそう。

 

ということで、結局どうなんだ、と思いつつ、企画展へ。

現在私たちが鑑賞している美術品は、それぞれの時代の所有者が使用目的に合わせて手をかけ、修理して大切に現在まで伝えられてきました。それはまさにサスティナブル、そう今注目されているSDGsの「使う人の責任で、物を大切にする」ことに他なりません。本展ではこうして伝えられた刀剣や屏風、海外で修理されながら使われた日本の漆芸品などの美術品をご覧いただき、あわせて林原美術館が貴重な文化財を後世に伝えるために修理を行った作品もご紹介いたします。

www.hayashibara-museumofart.jp

 

うお、SDGs。もういいっすよ。

 

となりかけたのだが、改めて心を無にして集中し入場。

 

一番初めの展示品のわきに、やさしい日本語、についての説明がある。

「日本に住んだり日本を訪れたりする外国人が増えてきている中で、本企画展では、多言語化や翻訳のみに頼るのではなく、解説の脇にやさしい日本語ver.の解説を併記するという提案をしたい。」

という趣旨らしい。確かに、日本語を勉強する外国人も増えてきたし、かんたんな日本語での説明文はあるといいかもしれない。

 

なお、やさしい日本語については、東京都のページがわかりやすい。

「やさしい日本語」とは、普通の日本語よりも簡単で、外国人にもわかりやすい日本語のことです。

1995年1月の阪神・淡路大震災では、日本人だけでなく日本にいた多くの外国人も被害を受けました。その中には、日本語も英語も十分に理解できず必要な情報を受け取ることができない人もいました。

そこで、そうした人達が災害発生時に適切な行動をとれるように考え出されたのが「やさしい日本語」の始まりです。そして、「やさしい日本語」は、災害時のみならず平時における外国人への情報提供手段としても研究され、行政情報や生活情報、毎日のニュース発信など、全国的に様々な分野で取組が広がっています。

世界には、多くの言語があります。すべての外国人に対して母語で情報を伝えることが一番理想的ですが、現実的には不可能です。そこで、言語の選択という問題が生じます。

多言語対応協議会では「多言語対応の基本的な考え方」を2014年に定め、「日本語+英語及びピクトグラムによる対応を基本としつつ、需要、地域特性、視認性などを考慮し、必要に応じて、中国語・韓国語、更にはその他の言語も含めて多言語化を実現」とし、取組を進めています。

しかし、言語の中でも難易度があるため、とりわけ、多くの外国人が理解できる日本語においては、できるだけわかりやすい情報発信(「やさしい日本語」)が求められています。

今、期待を集めている「機械翻訳」においても、いったん分かりやすい日本語に直してから外国語に訳した方が意味の通る訳文になります。「やさしい日本語」は、そのような効果も期待されます。

「会話」で伝えるときだけでなく、看板等の「表示」によって伝えるときも同様です。相手に外国語で伝えたい内容は、わかりやすい言葉から考えることによって、より伝わるものとなります。

そのように「やさしい日本語」を基本に置くことで、正しい外国語の表現にもつながっていきます。

「やさしい日本語」について | 2020年オリンピック・パラリンピック大会に向けた 多言語対応協議会ポータルサイト

 

いつものことだが前置きが長い。でも必要だと思うから書いている。すみません。

 

 

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企画展のポスターにも掲載されている、キュレーターイチオシと思われる刀の前に到着。

穴が3つ空いているところが持ち手の部品がハマるところで、その右が刀身。なのだが、その根もと(握った時に手のすぐ上に来るあたり)に、不動明王が彫り込んである。

 

刀は、人を殺めるために使う物であり、同時に自分を守るために使う物でもある。したがって、不要なものは極限まで排除し、文字通り命を預けることになる。しかし、不動明王は残されている。とすると、この刀にとって、刀鍛冶にとって、所有者にとって、不動明王は必要な存在だということになる。不動明王にその炎で全てを焼き払ってもらって、煩悩を断ち、目の前の生き死にのみに集中する必要がある。不動明王なりのご加護を纏いたいのである。

 

しかし、上の写真でもわかるかもしれないが、刀に彫られた模様を見て、精緻な不動明王が彫られているなぁ、とはならない。輪郭がなんとなくわかる程度である。もっとも、作られた当初はもっと不動明王らしかったかもしれない。だが、刀を刀として使い続けるためには斬れ味を維持すべく磨き続ける必要がある。磨くことで、刀は斬れ味を取り戻し、擦り減る。不動明王も、擦り減る。

 

通常ver.の解説文では、摩耗したが微かに最低限残されている不動明王の模様を「物を大事にする心」としていた。でも、うーんまあ確かにそうなんだけど、しっくり来ない。どちらかと言えば、「刀を刀として、道具としてきちんと使い続けるためのメンテナンスをすること」と、「不動明王のご加護が消えないようにすること」の、両立の難しさ、苦悩、葛藤などなどを、感じる。どう乗り越えるのか、という部分が気になる。本当に物を大事にするのであれば、メンテナンスも必要だし、不動明王も残さないといけない。

 

それで、やさしい日本語ver.を見てみる。最後の一文は、

「この刀は 神様が 消えて無くならないように 大切に 磨きました。」

となっている。

 

思わず、涙が出てしまった。いい大人だけど。

 

こんな、シンプルな言葉が、こんなに胸を打つことがあるだろうか、こちらの直感を言い当てることがあるだろうか。「物を大事にする心」というワードは、やさしい日本語ver.には登場しない。

「消えて無くならないように」とはあるが、事実としては現に不動明王の模様は消えかかっている。相反する現象を前にして、どちらかしか救えない状況で、では人は、どう生きるのか。人を殺したくはないが、目の前の相手を殺さないと自分が、家族が殺される、そのために刀を使ってどう生きるのか、というのと同じである。

不動明王の模様は薄くなるが、それでも「大切に磨く」ことが、大事なのである。削れて、なくなってしまうかもしれないけれど、でも大切に磨けばきっと、不動明王を大切に思う心はなくならない。ここに、磨き手と不動明王のあいだに、ある種の祈りとあたたかな赦しがあると、自然と思われた。

 

これが、やさしい日本語、である。

 

 

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続いて、こちら。能装束。(紅白段桜花文摺箔)

もとはツートンというか、片身替りといって半身が白で半身が紅のデザインの小袖であった。それを能装束に作り換えたもの、とのことである。作り換えた際に、胸より下の部分をたがいちがいに入れ替えている。着なくなったものを捨てずに再利用している上に、うまく使って新たないいものを作り出している、とのこと。たしかに。

 

では、これもやさしい日本語ver.ではどうなっているかというと、「姫君が着なくなった着物を斬新なデザインで作りかえました」という流れに引き続いて、最後の一文は、

「ぶたいでは その方が きれいに見えます。」

だった。

 

これもかなりやられた。

 

もはや事細かに書くのはやめるけれど、何かとても純粋な、いいものを作りたいという思いのようなものを感じた。加えて、生まれ変わった着物が能舞台のうえでいきいきと、凛としているシーンがわーっと浮かんできた。これは、実物を見ないとわからない気がする。すみません。

 

 

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斬新なカッコいいものをゼロから生み出して世の中を変えていくのはもちろん素晴らしい。でも、「今すでにこの世に存在している素晴らしいもの」の持つ価値を、じゅうぶんに発揮し続けさせることも、また等しく重要だなと思う。

 

上では触れなかったが、展示品には金継ぎされたお皿もあった。いくら絵柄が素敵でも、割れてしまったらお皿としての実用性はなくなってしまう。それを少し直すことで、また元のように、でも少し前とは違うかたちで、また新しく、かつ引き続きやっていくことができる。刀と不動明王に関しては、それがとても難しかったが道を見つけたということ。能装束に関しては、大幅に作り換えることで新しいとてもいいものができたということ。

 

今いる会社にも、そういう思想があるような気がする。というか、あると思ったから説明会に行き、受けた。研究者を目指す中で、一流の研究者たちがパパたるお国のお偉いさんたちから新奇性ばかりを求められ、社会を変革していくことばかりを求められているのを嫌というほど見た。でも、新発見や革命だけが全てじゃないよな、とずっとモヤモヤしていた。そんな中で今の会社に出会って、こっちかもしれないと思った。

 

一般論として、いくらいい技術や飯の種があり地域の雇用の受け皿であっても、赤字や不正が頻発するようではやがて立ち行かなくなる。そういう会社が立ち直っていくためのお手伝いを一緒に苦しみながらやっていく、ということ。そして、立ち直ったらまた新しいことができるし、もちろん引き続き以前の価値を発揮し続けることもできる。うちは金継ぎの会社だったんだな、自分は金継ぎがしたかったんだな、などと思った。隙自語。

 

 

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最後に、やさしい日本語について。

たぶん、やさしいという表記なのは、優しくも易しくもあるから。そして、テクニックやエゴを振り回して、表現を可能な限り着飾らせるよりも、相手のことを思いやってできるだけわかりやすくするという過程を踏む方が、結果的に表現が洗練されて胸を打つもの、真ん中をぶち抜くものが生まれるのではないか、ということをもっとよく考えていきたいなと、つくづく感じた。外国人うんぬんではなく、やさしさは、シンプルに強い。

 

 

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ちなみにこの企画展、11月までやっている。逆に言えば、11月で終わってしまう。

たくさんの人に来てもらって、何かを感じてもらえたらいいな、と思う。