おもしろい通勤通学

今の下宿に引っ越してきてから4年が経とうとしている。

 

 

越してきたばかりの頃はどのルートで行くと最短なのかを探るべく、毎日違う道を通って通学していた。基本的に毎日通学した。というのも、授業や実習、サークルといった大学での用事は開始時間が決められているしそれらの日程の振替は基本的に存在しないからである。従って、体調を崩さない限りはなんだかんだで毎日通学した。1ヶ月もしないうちに自分なりの最短通学ルートが定まり、固定化された。

 

 

その2年後、学部を卒業し、大学院に入院した。

 

 

「入院、おめでとう。」これは大学3年生のはじめ、学科の講堂で大学院生と一緒に学科配属の共通ガイダンスを受けた際に当時の学科長が壇上にて発した言葉だ。そうか、彼らは入院するのか、と学部生の自分は不思議な気持ちになった。あたかもどこか悪いところでもあるみたいじゃないか、とも思ったが、大学院への進学は18歳人口の5.5%に留まっており、短期大学や2年制の専門学校を卒業した者では概ね20歳以上で就労し、一定の稼得能力がある者がいることを踏まえれば、こうした者とのバランスを考える必要があること等の理由から、このような取扱いをしているものです。

 

 

はたして今度は自分が入院することとなったのだが、時は2020年4月、流行り病のせいでそのようなーーーどでかい講堂に大勢の教職員・学生を一網打尽に詰め込むーーースタイルのガイダンスは当然中止となった。講義は全てオンラインで行われることになった。また自分が与えられた研究テーマも、向こう数ヶ月は下宿からリモートで行うことのできるものとなっていた。ちなみに研究テーマに関しては疫病が流行る前に准教授が作成し採択された競争的研究資金の申請書のシナリオ通りであり、疫病が流行っていなかったとしても多かれ少なかれ同じ状況にはなっていたと思われる。

 

 

ともあれ、それまでとは異なり、定時的な通学を行う必要がなくなった。研究室への通勤通学禁止は3ヶ月くらいで解除されたと記憶しているが、コアタイムもなく、やはり「決められた時間に大学に行って何かをする」という必要がなくなった。下宿での研究に飽きたら大学に行って、大学での研究に飽きたら下宿にこもる、みたいな日々にシフトした。

 

 

いつからかはわからない、修士1年の冬だったかもしれないし、2年の春に学振を書いていた頃だったかもしれない、とにかく、どこかのタイミングから、学部時代に使っていた最短ルートが嫌いになった。この最短ルートを以下、ルート甲とする。

 

 

ルート甲は確かに距離的・時間的に最短経路で、ほぼ一直線。比較的大きな通りというか閑静な住宅地を貫く幹線なので信号は全て青の状態で通過できることが多い。自転車をmax27km/hくらいで漕いでいると11分台で大学着。という感じで、半ばタイムアタック参加者のような気持ちでの通学と相成る。

 

 

これが、なんというか、とにかく厭になってしまった。おもしろくないのである。ルート沿いに店は少しあるが、コンビニやピザチェーン、まいばすけっと等であり、興味を惹くものはない。通学におもしろいも何もないだろ、と思うかもしれないが、おもしろくないものはおもしろくない。ただ、行って、帰るだけ、みたいな気分になる。ほんで、通学がおもしろくないと、大学に行く気が失せてくる。研究がうまく行っている時は読んだ論文のことを考えたり脳内でコードの試行錯誤をしたりしているといつの間にか大学に着いていてそれはそれで良いが、そんな日は稀であり、自転車を漕ぎながら、何をしているんだろう、という気分になってくる日の方が多い。ただし、このルートが嫌いになったことと、研究が大変だったこととは、あまり関係がないように思う。うまくいっている時も後述する別ルートで通学するようになったから。また、逆に一刻も早く帰りたいという日は、迷わずこのルートを選んで帰ったりもする。それから、ルート甲の最後に鎮座する門の側にはテレビ局の職員が待ち構えていることもあり、純粋だが少し承認欲求高めな弊学の学生を捕まえては地上波に売り飛ばして見せ物にしている。これを見るのがなかなか精神的に厳しいというのも多分にある。

 

 

そしてこれもいつからかはわからないが、気づいたら、もうひとつのルートで通学するようになっていた。こちらを以下、ルート乙とする。

 

 

ルート乙は甲プラス<1km、甲プラス10分といったところで少し遠回り。実際、ゆるく曲がっていて信号も多く、何回もブレーキを握って減速・停止し、青になればまた加速しなければならない。ただ、こちらはなぜか飽きない。個人営業の飲食店や居酒屋をはじめ、輸入食品の店、ブックオフ、扱う品物の得意不得意や価格帯の異なるスーパーたち、他の駅方面へと折れる道、好きな戦国武将の名前がついた交差点名、友人の寮(現に歩いている友人を後ろから自転車で追い越したこともある)、幼稚園や学校、"だし"しか売っていない自販機など、とにかく色々ある。そして哺乳類の糞のにおいがする動物園の脇を通り、好きな公園の脇を通って、ラストスパートに坂を上って大学着。最後の坂は少々キツいが、それまでの道中で体はあったまっており、思ったほどではない。坂を上る道に折れずにそのまま進めば、実家の最寄りに直通する新幹線の通る駅やこれまたお気に入りの巨大・ザ・鮮魚スーパーなどがある。魚を買ってから大学に行くだとか、なんなら魚だけ買って大学に寄らずに帰ることもできる。そもそも魚を買わず、水族館に行くような気持ちでただ魚を眺めて、それから大学に行くのもまた良い。

 

 

なぜか飽きないとは上で書いたが、まあとにかく雑多でオッと思うものがルート乙沿いには多いから、ということなのだろう。自転車を漕いでいると、その性質上周りをよく見て運転することになる。「安全かつ最速」で目的地に到達することを目的とするのであれば、下宿-大学間にて受け取る時間的/空間的な"余計な"情報の量としてはルート甲の方が少なく、命に関わるような咄嗟の状況変化への対応に必要十分な量であり、良い。しかしまあ、代わり映えのしない景色の中をただただ漕ぐというのを日々繰り返すのはなかなかに厭になっちゃうものなのであった。

 

 

実際にそうするかどうかは置いておいて、通っていておもしろそうな店があれば一旦自転車を停めて入ってみよう、別に大学に行くのが少し遅れても問題ない、という余白、可能性、が残されていることが自分にとってはおもしろく、またある種の安心感でもあるのだなという。これはなんか「画一的で効率的な生活を志向し競争社会・資本主義社会で勝ち抜いていこうとする、というのは限界があるし息苦しい」みたいなアレとちょっと似ているかもしれないけど、でもそんな安易な一般論に還元されてしまったらちょっと嫌ではある。(自分の場合は「正しくなくても良い」ということではなくて、どっちかと言えばそもそも「正しくなくても良い」と考える時点で正しさにとらわれているよね、みたいな感じ。そんなことではなくて、正しいとか正しくないとかを考えるのはナンセンスだというか、世の中におもしろいと思えるものは無数にあるし、気分もその時々によって異なるから、その時に一番おもしろさを感じられるように動きたいな、という。そういう意味ではその時の自分の気分やそれが下す判断が一番正しくあってほしい、という願いのあらわれである可能性もあり、したがって何らかの正しさを信じているという点で結局同根なのかもしれないが。)

 

 

となると、将来働くとなった時にはなるべくおもしろい通勤がしたい。電車通勤はかつてはある種の戦いだったかもしれないが、今では(座ることさえできるのであれば)本を読んだり携帯端末で劇を観たりといったことができるということを考慮すれば案外悪くないのかもしれない。一方で、激務に追われているとそんなことを考える余裕すらないぞ、というお叱りをいただくかもしれない。でもそういう時こそあえておもしろい通勤がしたいな、などとも思う。そもそも、毎日同じ路線で通勤すること自体、厭になっちゃうかもしれない。自転車で通勤する日もほしい。

 

 

などということをぐるぐると考えながらルート乙を通って鮮魚スーパーに向かい、年末年始の買い物をしました。地元の鮭は少し高かったけど、帰省できないぶん何か地元のものを食べたい(あとそもそもとても美味しい)と思い、奮発して買いました。ルート乙にはもう少しお世話になろうと思います。ではまた。

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カメラロールを遡ったら、2020年のちょうど今日、大晦日に自転車を停めてルート乙の写真を撮っていた。思ったより前から気に入っていたのかもしれない。