変化と喪失

疲れからか、2日連続で逆方向の電車に乗ってしまう。

場末の焼酎一杯で、頭が痛くなってしまう。

課題の締め切りが守れなくなる。

以前好きだったひとに、何もときめかなくなってしまう。

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年を重ねていくにつれて、もちろん経験が増え、視野が広くなり、こなせるようになることは増える。おそらくもう、片手間に作った中華炒めやぶり大根で家族を喜ばせることもできる。

しかしそれと同時に、できなくなること、喪うもの、も増える。

"健康な体があればいい 大人になって願う事"

藤原基央は言語能力が高い。

 

 

 

生きていれば必ず死ぬし、夜の後には必ず朝が来るし、水は川を降って海に注ぎ、雲になってまた山へ戻る。

「短冊、なんて書いたの?」

「んー、この幸せがずっと続きますように、って。」

永遠とは現象ではなくて、願いである。

 

 

 

 

ひとはものを食べて、からだにこの地球の一部を取り入れる一方で、地球に身体の一部を返す。そもそも、存在からして絶えず変化するものだ。しんちんたいしゃ、ってやつだ。ひらがなで書くとかわいい。

どうもわたしは、「生きること」「変化すること」イコール「あたらしいものを手に入れること」だとしか思っていないらしい。「生きること」「変化すること」には「ものを捨てること」や「ものを喪うこと」がついてまわる、という事実から目を背けているらしい。(捨てるというのは能動的な営みで、喪うというのは受動的な営みだ。)

 

 

 

昔から、ものを捨てるのが下手だった。掃除機や洗濯機が壊れて業者に回収されていくときには必ず泣いていた。忘れることが怖くて、反芻しているうちに記憶力がついていった。2月の終わりくらいから3月が来るのが怖かったし、3月になればずっと3月でいてほしかった。そのくせ、4月になれば3月までのことなんかけろっと忘れてしまって根拠のない期待感で胸をいっぱいにしていたし、ときめいた小石やどんぐりを片っ端からポケットに突っ込んでは家に帰るとそのことを忘れてズボンを洗濯に出してしまって母と洗濯機を困らせたし、祖父が亡くなったときは死そのものが大きすぎて混乱が悲しみを圧倒した。なんともご都合主義なものだ。

 

 

おそらく、所有欲は人一倍あるが、「所有に伴う責任」については鈍感なのだろう。だから、カブトムシは捕まえたときが一番幸せだった。あるいは、カブトムシが好きだったのではなく、カブトムシを捕まえることのできるじぶんが好きだったのかもしれない。

 

 

そうこうしながら、なけなしの能力や地位や財産(と呼べるかわからないもの)を引き連れてここまで来たのだけれど、持つことの限界や、持つことで生まれる苦しさ、持てなくなることや喪うことのつらさ、がいよいよ大きくなってきた。まだ完全に消化してじぶんのものにできたわけではないけれど、痛みが少しでも和らぐことを願って、「捨てること」「喪うこと」「いまを生きること」ついて書き残しておこうと思う。

 

 

 

 

 

"死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。"

-ノルウェイの森 / 村上春樹

 

ほんとはノルウェイの森についてもっと書きたいけれど、ここでは軽く。

生死に限らず、ものごとには必ず終わりがある。あるものごとが存在するとき、それには必ず終わりがある。そのことを、まずは自覚しよう。研究室も、サークル活動も、親との関係も、この先の新たな無数の出会いも、じぶんの人生も。いつか終わることをまずは念頭に置こう。終わりを、予想しよう。受け入れよう。

 

 

 

"さよなら 君の声を抱いて歩いていく"

-楓 / スピッツ

 

"船に乗るわけじゃなく だけど僕は港にいる
知らない人だらけの隙間で 立ち止まる
遠くに旅立った君に 届けたい言葉集めて
縫い合わせてできた歌ひとつ 携えて"

-みなと / スピッツ

 

"この街を繋ぐ幾千の 幾千の音

重ねてゆけばいつかあなたの声に近づくのかな

坂の上り下り幾千の 幾千の理由

拾いながら 溢しながら 今

また春が来ます"

"この街を繋ぐ幾千の 幾千の光

組み合わせればいつかあなたの影に近づくのかな

道の曲がり終わり幾千の 幾千の理由

拾いながら 溢しながら 今

また春が来ます"

-聲 / 倉田京

 

"死んだ人はずっと死んだままだけど、私たちはこれからも生きていかなきゃならないんだもの"

-直子のことば ノルウェイの森 / 村上春樹

 

"しかし結局のところ何が良かったなんて誰にわかるというのですか?だからあなたは誰にも遠慮なんかしないで、幸せになれると思ったらその機会をつかまえて幸せになりなさい。私は経験的に思うのだけれど、そういう機会は人生に二回か三回しかないし、それを逃すと一生悔やみますよ。"

-レイコのことば ノルウェイの森 / 村上春樹

 

"どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。"

-ノルウェイの森 / 村上春樹

 

また、終わりにまつわる苦しみの存在も自覚しよう。

苦しみを消すことは諦めよう。痛みとはおそらく歩いていれば増えるものなのです。それでいいし、そういうもの。もがくじぶんはダサいかもしれないけど、かっこつけて爆死するのはもっとダサい。

でも、その痛みにかまけて、目の前のことを疎かにしたり、大切にしたいものを大切にしなかったり、幸せを見逃したりするのは違う。

 

 

 

"君が思い出になる前に もう一度笑ってみせて"

-君が思い出になる前に / スピッツ

 

"出来るだけ離れないで いたいと願うのは
出会う前の君に 僕は絶対出会えないから
今もいつか過去になって 取り戻せなくなるから
それが未来の 今のうちに ちゃんと取り戻しておきたいから"

"そしていつか星になって また一人になるから
笑い合った 過去がずっと 未来まで守ってくれるから"

-宇宙飛行士への手紙 / BUMP OF CHICKEN

 

いまやっていることに何かしらの意義を感じているなら、終わりまで精一杯やること、終わりまでやり遂げること、がその意義を感じるじぶんに対して責任を取るということだろう。つまり、おそらく所有に対する責任とは、究極的には過去の自分に対する責任。歌詞に「君」という言葉が出てくるとすぐに恋愛の歌だと考えるひとがいるけれど、こういうことを考えるにあたって「君」という言葉はとても便利だなあと最近思う。

もがきながら、でも確実に、いまを大切に生きよう。大切に生きた"いま"が、苦しみに化けつつもかけがえのないお守りになってくれることを願って。

 

 

 

 

「短冊、なんて書いたの?」

「んー、この幸せがずっと続きますように、って。」

『そうか、じゃあ、がんばるね。』

永遠とは現象ではなくて、願いである。もっと言えば、終わりを自覚した上での努力である。

新幹線と私

新幹線に乗っていたら、新幹線のことが、新幹線と共にあった自分の人生が、なんだかとても愛しくなってしまったので、書いてみる。

 

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初めて新幹線に乗ったのがいつなのかは覚えていない。けれど、物心つく頃には半年に一回の楽しいイベントのひとつとして、「新幹線に乗る」という行為が存在していた。母は若かりし頃父と結婚して、楽器や発動機で有名な太平洋側の温暖な工業都市から、一年のうち三分の二が曇や雨という、とある北の国まではるばるやってきたのである。そのため、母が帰省するとなると、私も母に連れられて新幹線を乗り継ぐことになるのであった。

 

 

新幹線に乗るにはまず駅に行かねばならない。駅まではいつも決まってタクシーを使っていた。カーテンは閉められ電気も消え、普段と少し雰囲気の変わった外出前の自宅のリビングで、母は一週間分の荷物を抱えてタクシー会社に電話していた。電話の子機は黒ともグレーともつかない、不思議な色であった。タクシーの中はこれまた形容しがたい匂いであふれていたが、その匂いは私の中で、これから新幹線に乗って祖父母のもとへ行くんだという高揚感と結びついていて、今でもありありと思い出すことができる。駅までバスで行くこともできたが、その金銭的是非はともかく、タクシーというあの独特の密室とその匂いは私にとっての小さな冒険のはじまりにふさわしいものであった。

 

 

改札の前の小さな駅弁屋で「雪だるま弁当」を買ってもらい、新幹線に乗り込む。「松茸にぎわい弁当」や「ますのすし」のときもあった。母は高崎の「だるま弁当」がお気に入りだった。一回だけ、新幹線に乗った後に母がお茶を買いに新幹線の外に出てなかなか帰ってこなかったことがあった。「発車までもうしばらくお待ちください。」発車数分前になっても母は戻ってこなかった。当時厳しく育てられていた幼稚園児の私は―――時間にあまりにもルーズで大学の単位をしばしば落としている今の私からすれば驚きでしかないが―――母が乗り遅れてしまうのではないか、このままひとりで東京まで行かなければいけないのではないか、東京駅での乗り換えができず迷子になってしまうのではないか、いやそもそも母に何かあったのではないか、など、この時期の幼児にありがちな種々の不安に押し出されるようにして席を離れ、新幹線のドアの前で母を待ったのであった。結果的に母は何事もなかったかのような顔で戻ってきた。こんなことまで詳細に覚えている自分が気持ち悪く、また愛しい。

 

 

二階建て新幹線に乗ることになった時のよろこびはまた格別であった。表日本の人間からすると信じられないかもしれないが、当時の私は新幹線といえば二階建てがメジャーだと思っていた。一階建てというか、よくある普通の新幹線からは防音用のコンクリガードしか見えないのである。それゆえ、東京までのおよそ2時間―――幼児にとって2時間という時間は非常に果てしないのである―――のあいだ、二階から自宅が、小学校が、デパートの観覧タワーが、サッカースタジアムが見える、御神体の双子の山が、果てしない田んぼが、さびれたスキー場や温泉街が見える、というのは、非常に刺激的で有意義なことだった。コンクリートの壁を2時間見続けるか、それとも毎秒変化していく景色を2時間見続けるのか―――そこには天と地の差があった。

 

 

一方で二階建て新幹線の上級者向けの楽しみ方として、地下の座席に座る、というものもあった。コンクリートの防音壁を2時間見続けるという意味では、普通の新幹線に乗るのと変わらない。この最大の楽しみは、駅に停車するたびにホームの床の断面を見ることができる、というところにある。なんとも変態的な幼稚園児であるが、まあ子どもというのは多分に大人の理解の範疇の外にあるものなのだ。しかも、駅に停車した時にしか見ることができないので、駅間は基本的に我慢の時間であり、ある種のマゾ気質が養われたようにも思う。

掃除の行き届いていない閑散とした駅のホームだと、ほこりが落ちている。断面の模様についてはもう覚えていない。そんな駅ごとの些細な違いや、駅の普段見ることのできない別の顔を目にしては、隣で本を読んでいる母にひとつひとつ報告していた。

 

 

東京へと這い出るには、長い長いトンネルを通過する必要があった。このトンネルは、表日本と裏日本を分断しつつ繋いでいる、そんな境目としての機能を果たしている。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた。」のようなフレーズそのものである。トンネルに入るまでは、ただひたすらに田んぼと山、雲と雪、陰湿さと諦念があるのみだが、トンネルを出ると、あたたかな陽差しと果てしない住宅街が広がり、根拠のない自信と何かが始まるのではないかという期待であふれ、それらの傾向は東京に近づくにつれてより顕著になる。そして、それらの境目がトンネルなのである。トンネルの中は真っ暗で、気圧の関係で耳がおかしくなる。不安と一緒に何度も、つばを呑み込む。幼い自分にとって、トンネルはまさに乗り越えるべき、我慢すべき空間であった。いわばサナギのような期間であった。

 

 

ところで、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた。」というのは、表日本の人間視点の表現である。私からすれば、「国境の長いトンネルを抜けると陽の国であつた。」とでもなるのだろうか。もっと言えば、「私からすれば」というよりもむしろ、「幼い頃の私からすれば」ということである。裏から表へ出て、また裏へ戻っていく人間の視点である。祖父母の家は東京と同じ陽の国、表の国である。祖父母、特に祖父は人情味もあり非常に活発な人間であったため、釣りや潮干狩り、カラオケやボウリングやサッカー観戦など、さまざまなイベントを企画しては私たちを"引率"してくれた。祖父母の家に行けばほぼ間違いなく楽しい時間を過ごすことができた。母の帰省について行くことは、非日常としての陽をめいっぱい浴びるイベントでもあった。これは私が高校生の頃までほぼ変わることはなかった。したがって、新幹線に対して抱いていた感覚もほぼ変わることはなかった。この新幹線に対して、東海道新幹線以上の意味や役割を感じるのだ。

 

 

まだ書きたいことがありますが、いったん切ります。

山と川とルイ14世 前編

お久しぶりです。

”境界”と人間の話をしてみようと思います。

 

 

 

まず、突然ですが、ルイ14世のお話。

kotobank.jp

自然国境説、というものです。ここにもあるように、領土とか国家とかの境界を、人々の言語・宗教・習慣などといった文化的な特徴ではなく、山や川などの自然的特徴をもとにして決めよう、といったものです。「あの川までは(本来)俺の領土(のはず)だから攻めるけど文句言わないでねヨロシク」というように、対外侵略のための口実にすぎない、という否定的な見方もできます。というかむしろ、否定的な口調で語られることが多い気がしています。

 

でも、山とか川とか、そういった自然国境は目に見えてやっぱりわかりやすい境目であり、人々にとって何らかの意味付けが多分になされる場所なんじゃないかなあ、というのが今回のお話です。また、だだっ広いヨーロッパの平原においては、同一平原内の一見違いのない土地に別のコミュニティが存在するかもしれませんが、日本のような比較的狭いところでは本当にそうだろうか、とちょっと思ったというお話です。といっても、かなり個人的な、ポエム的な話になるかもしれません。最後までおつきあいいただければ幸いです。

 

 

 

高3の自分は(いきなり個人的な話ですねえ)東京の大学を受験するも不合格となり、浪人することになったのですが、その際に環境を変えようということで東京に出させてもらうことになったのでした。大学生になったわけでもないのに、"東京"に出ることになったのでした。とは言え世の中はやはりお金ですから、家賃が安いからというただそれだけの理由で、埼玉県の川口市という"東京"に仮住まいをすることとなりました。川口市といっても住んでいたのは少し外れの方で、風俗店の一斉摘発後空洞化し、混沌としていたエリアです。中華系・東南アジア系外国人が当時多数流入していて、治安はまあ御察しですが、物価が低く浪人生のお財布にはありがたかったことを覚えています。ムーンライトが一箱128円でしたね。

 

仮住まいから20分くらい南の方に歩くと、荒川という大きな川にたどり着きます。

川の向こうは赤羽、つまり東京です。一方、川の北側、こっち側は埼玉です。

第一志望の大学や通っていた予備校に行くには川を渡る必要があります。一方、自分の仮住まいや自分の地元(埼玉以北の北日本のどこか)は川のこちら側にあります。

講習を取ったり模試を受けたり、あるいは上野の美術館や博物館に行ったりするときは、必ずこの川を渡ります。一方、友人たちとサッカーをしたり、勉強に疲れてあてもなく自転車でフラフラしたり、合格発表の何時間か前に落ち着かなくてたどり着いた場所は荒川のこっち側の土手です。

第一志望に合格した現在、住んでいるのは川の向こう側です。一方、もし不合格になっていたら、おそらく地元の大学に通っていたでしょうから、広義”こっち側”に住んでいたことでしょう。

 

自分にとっておそらく、荒川という川は、大学に晴れて合格し世界をぐんぐん広げていくある程度自立した自分と、高3までの自分や宙ぶらりんになっている自分とを分ける、といった意味合いをもつものです。荒川を「渡る」ことには、物理的移動のみにとどまらず、「渡ることができる」、「渡ることが許される」ということ、つまり自分の意味が移動する、ということが含まれているように感じます。荒川の土手に座って向こう側を眺める、という行為には、自分の質的変化を望むという、行為以上の意味が含まれているように思えるのです。川の向こうでしかできないこと、が確かに存在し、それに想いを馳せることなのです。

また、これは自分にとっての意味付けであり、川口駅の真ん前の高層マンションに住むサラリーマンや、板橋に住んでいる浦和レッズのファンにとっては、また別の意味付けが存在するでしょう。意味付けはひとそれぞれであるべきだろうし、実際ひとそれぞれだと思います。

 

これは別に現代に限った話でもない気もします。

江戸時代初期における豊臣秀頼、彼は父・秀吉から受け継いだ大坂の地を離れることなく生涯を閉じますが、家康は秀頼に対し当初大和郡山(現在の奈良県)への移封を提案していました。もちろん知行が激減するので家臣たちをリストラしなければならず、さらに国替えしたところで命が永遠に保障されるというわけでもありませんでしたが、少なくとも外堀を埋められ城としての機能を大幅に欠いた状態の大坂城にこもって無謀な戦いを仕掛けるよりはワンチャンスが残ったのではないかと思います。しかし、彼にとって本当に"意味"があったのは大坂城であり、大阪平野であり、生駒・金剛山地のこっち側、ということだったのでしょう。もちろん、太閤の子であるというプライドもあったでしょうが、実権はすでに失っていたと言えるので、ホンネはこれだったんじゃないかという気がしています。ともかく、彼は”生駒・金剛山地のこっち側”で最期を迎えます。

 

 

 

何か感じるところのあったあなた、身の回りの地形的な境目、を思い浮かべてみてほしいです。普段、何とも思っていなかった山や川が、実は自分の”意味”を区切るような装置として見えてくるのではないでしょうか。

また、本当は「自分の”意味”を区切る」ということについて、荒川の土手に座って浪人時代の友人と掘り下げた話がありまして、むしろこっちを書きたかったのですが長くなったので、後編として後日書き直します。

 

 

もしも君が泣くならば

浪人時代の話です。

 

www.youtube.com

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これいい曲です。素直。若い。青春。高校。現在、周りの様子を窺いながら生きてる身分にとってかなり痛快。普段からこれぐらい言いたい放題ぶちまけて生きたいものです。懐かしい。

"人間なんて誰だって駄目なんだ"

少しでも人より上に上に行こうともがいている人が多いなあと感じています。自分もそうなりがち。でも結局これです。お互いに弱いとこ認め合って、肩組んで大声で歌うくらいが幸せ。

 

先日友人が銀杏BOYSなるバンドについて話していたので、ゲオでパパッと3枚くらい借りてきて聴いていました。

 

で、この曲です。以前聴いたことがありました。浪人中。11月の大学別模試の帰りにカラオケ行ったんですけど、そこで浪人仲間が歌ってました。

こいつがかなりの曲者なんです。はっきり言って天才です。ただの首都圏の私立中高一貫のガリ勉とは雰囲気が違って、スポーツも音楽もできて、映画とか本にも詳しくて、小説の中の登場人物みたいなスーパーマン。でも、天才であるが故に(?)こつこつやれないみたいで、東大理三に2年連続であと10点足りなくて落ちるようなやつです。それまで(理三を受けるにしては)ほとんど勉強してないのに。逆に言えば、してないから。10点というのは、二次試験の理科とか数学の大問0.5個分ですから、各教科であとちょっとずつ点を積み重ねればなんとかなるんです。彼くらいの地頭の人がそこそこ1年やれば軽く取れちゃうはずなんです。なんてったって彼はセンター倫政をセンター試験の3日前から始めてセンター本番で80点くらい取っちゃうんですから。

 

初めて会ったのは4月、予備校の前で寮の友人たちと会ったとき、そこに一緒にいた感じです。いきなり、「俺の名前当ててみぃ?」って言われたのを今でも覚えています。とにかくむちゃくちゃなんです。菅田将暉とか松田龍平みたいな髪型と関西弁のせいで、なんとなく藤原っぽいなと思って、藤原、って言ったら、「そんな高貴な名前やないで、〇〇や」って意地悪っぽく(いたずらっぽくはない)言われました。イキってたし、当初の印象はそんなによくなかったです。

その後はまあイヤな部分も見ながらも、すこしずつ仲良くなって(?)いって、模試の現代文の問題について議論したり、「The Great Gatsby」を薦められたり、と、割と話すようになりました。

 

で、秋の大学別模試です。河合塾だったか駿台だったかは忘れました。ただ、お互いに数学が葬式状態だったのでたぶん駿台です。とにかく、落ち込んでて、帰りが一緒になって、寮の最寄りのカラオケに行くことになったんです。

彼は自信屋で、批判精神旺盛なんです。少なくともそう見えます。でも、選曲も歌声もどこかロマンチストというか繊細なんです。Uverとかワンオクじゃないんです。久保田利伸とか尾崎豊なんです。そして、最後の最後で、「高校時代にバンドでやった曲や。」って言って、突然Going Steady とか銀杏BOYSを歌い始めたんです。歌詞がまっすぐなのもあり、彼の本当の姿のようなものを見たような気がして、ただただ茫然としていました。

要は、とても危うい部分のある自信屋なんです。普段は強がっていて、実際強いんですけど、本当は不安と戦っているんです。人知を越えた存在だと思っていたんですけど、実は悩める2浪の青年なんです。人間なんです。それがわかった瞬間、なんだかとても温かい気持ちになりました。ありきたりですかね。でも実際そうなんです。"人間なんて誰だって駄目なんだ"を地で行ってるんです。

 

彼はセンター試験で無難に92%くらい取って、東大理三に10点ほど足りなくてまたしても落ちました。東大の二次試験の数日前、寝る前に洗面所で会った時、「俺だめかもしれんわ。」と、ぽつりと言われました。そうか、としか言えませんでした。もっと勉強しとけばよかったんだよ、とは言えませんでした。だって、悲しいけどそれが彼の生き方なんですから。

 

 

彼は今年は大阪で浪人しているそうです。もちろん今年も東大理三を受けるそうです。もしも君が泣くならば、これを聴いてふと彼のことを思い出したので書き残しておきます。

お前なんで音楽やってんだよ

音楽の話をします。

 

まずピアノで考えてみましょう。独学でピアノを練習してる人の話は今回は扱いませんごめんなさい。習いに行った場合の話をします。

ピアノを習いに行くと、発表会、ってものがあるのではないでしょうか。出る出ないは先生と相談して決めたりすると思いますが。この発表会というものに対する姿勢として

1 もう本当に嫌だやめたい…練習不足だし弾けない

2 どうしよう…練習不足だしミスもするだろうけどがんばるか…

3 この日を待ってた!今年n回目の発表会だし、順調にキャリア積めてるって言えるよね

4 この日を待ってた!この曲すごく好きだしお客さんに口ずさんで帰ってもらいたいな

 

ってな感じではないでしょうか。小学生くらいだと、たいていの人は1とか2あたりじゃないですかね。家でピアノをひとりで弾いたりするのはは好きだけど緊張しちゃったり、普段から嫌々ピアノ教室に通ってるから発表会なんてもってのほかだけど拒絶するほどの勇気はなかったり。3はなんか大人の世界の香りがするからあんまりいい喩えではなかったかも。

この中だと一番幸せなのは4に見えます。まあ3も本人的には幸せか。

 

ピアノの話でしたが、ここからは音楽全般の話。

プロでもアマでも、CDを出したり、合同ライブに参加したり単独でライブを敢行したりする、というところまで来ると、ピアノの発表会の話における1や2のケースの人は少なそう。というかそういう人は逆になんで対外発表しようとするんでしょう。まあ、普段は楽しくやっているけど、マネージャーや他メンバーに引きずられてしょうがなく/所属団体の定期発表会があるからしょうがなく、って感じですかね。とりあえずつらそう。

 

3の人。

なんか3の人多くないですか。自分の周りだけかもしれないですけど。

ピアノの喩えにおいて、3は不自然に映るじゃないですか。なのに、音楽一般の話になると不自然には感じないのでしょうか。それとも不自然に感じるのは自分だけですかね。社会不適合者つらい。

この人たちは、認知されたい、有名になりたい、自分の地位を上げたい、という欲求が根底にあって、そのために音楽を利用している、というように自分には見えます。あるいは目に見える成果がほしい、たとえば1か月でこの問題集3周解いた、1か月で5キロ痩せた、1か月でライバル社員の1.5倍の件数の契約を取り付けた、とか、その類のものに見えます。

 

 

 

やっぱ4みたいでありたくない?

 

音楽って、

まず、自分が好きな音楽(この歌詞いいんだよな、ここのリズム好き、メロディーのこの流れがたまらんetc)ってのがあって、

次に、それを自分の中だけにとどめておくのはもったいない、誰かにもこの素晴らしさを分かってもらいたい、と感じるようになって、

そんでもって家族とか友人に聴いてもらったりして、

そして、そして、その延長に、発表会とかライブがあって、ちょっと背伸びしてCD出しちゃったりなんかして、

ってものじゃないでしょうか。

だから、その自分の好きな音楽の好きなところを他の誰かに分かってもらうことが大事であって、そのためにはミスが少ないほうがもちろんいいでしょう。でも、極端な話、その音楽のエモエモポイントが伝われば、些細なミスはどうでもいいのではないでしょうか。ミスったかどうかより、伝わったかどうか、みたいな。普段の練習も、定期的に触れて勘を鈍らせないためということもあるでしょうけど、やっぱ、エモエモポイントを磨くため、のものだと思います。

だから、とりあえずCD出したいとかライブ出たい、ってのは、順番が逆。少なくとも4でありたい人にとっては。あと、定期発表会への強制参加みたいなのも、その観点からするとアウトに見えます。伝わるかどうかが問題となっている場合、ミスというものは優先順位が下がるので、「場慣れのよい機会だから」、というのは4の立場からすると3の人の言い訳に聞こえます。3の人にとって、ミスをするということは自分の評価を下げることになりますからね。

 

音楽って楽しいからやってるし、それをいろんな人と共有したいから人前で音楽やるんだと、そう思ってます。楽しくないなら、無理してやる必要ないでしょ。

 

以上、自戒をこめて。ちなみに、自分の記憶だと、中田ヤスタカとか野田洋次郎は確か4みたいなスタンスです。最近capsuleのレトロメモリーって曲がアツい。中田ヤスタカは天才。