新幹線と私

新幹線に乗っていたら、新幹線のことが、新幹線と共にあった自分の人生が、なんだかとても愛しくなってしまったので、書いてみる。

 

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初めて新幹線に乗ったのがいつなのかは覚えていない。けれど、物心つく頃には半年に一回の楽しいイベントのひとつとして、「新幹線に乗る」という行為が存在していた。母は若かりし頃父と結婚して、楽器や発動機で有名な太平洋側の温暖な工業都市から、一年のうち三分の二が曇や雨という、とある北の国まではるばるやってきたのである。そのため、母が帰省するとなると、私も母に連れられて新幹線を乗り継ぐことになるのであった。

 

 

新幹線に乗るにはまず駅に行かねばならない。駅まではいつも決まってタクシーを使っていた。カーテンは閉められ電気も消え、普段と少し雰囲気の変わった外出前の自宅のリビングで、母は一週間分の荷物を抱えてタクシー会社に電話していた。電話の子機は黒ともグレーともつかない、不思議な色であった。タクシーの中はこれまた形容しがたい匂いであふれていたが、その匂いは私の中で、これから新幹線に乗って祖父母のもとへ行くんだという高揚感と結びついていて、今でもありありと思い出すことができる。駅までバスで行くこともできたが、その金銭的是非はともかく、タクシーというあの独特の密室とその匂いは私にとっての小さな冒険のはじまりにふさわしいものであった。

 

 

改札の前の小さな駅弁屋で「雪だるま弁当」を買ってもらい、新幹線に乗り込む。「松茸にぎわい弁当」や「ますのすし」のときもあった。母は高崎の「だるま弁当」がお気に入りだった。一回だけ、新幹線に乗った後に母がお茶を買いに新幹線の外に出てなかなか帰ってこなかったことがあった。「発車までもうしばらくお待ちください。」発車数分前になっても母は戻ってこなかった。当時厳しく育てられていた幼稚園児の私は―――時間にあまりにもルーズで大学の単位をしばしば落としている今の私からすれば驚きでしかないが―――母が乗り遅れてしまうのではないか、このままひとりで東京まで行かなければいけないのではないか、東京駅での乗り換えができず迷子になってしまうのではないか、いやそもそも母に何かあったのではないか、など、この時期の幼児にありがちな種々の不安に押し出されるようにして席を離れ、新幹線のドアの前で母を待ったのであった。結果的に母は何事もなかったかのような顔で戻ってきた。こんなことまで詳細に覚えている自分が気持ち悪く、また愛しい。

 

 

二階建て新幹線に乗ることになった時のよろこびはまた格別であった。表日本の人間からすると信じられないかもしれないが、当時の私は新幹線といえば二階建てがメジャーだと思っていた。一階建てというか、よくある普通の新幹線からは防音用のコンクリガードしか見えないのである。それゆえ、東京までのおよそ2時間―――幼児にとって2時間という時間は非常に果てしないのである―――のあいだ、二階から自宅が、小学校が、デパートの観覧タワーが、サッカースタジアムが見える、御神体の双子の山が、果てしない田んぼが、さびれたスキー場や温泉街が見える、というのは、非常に刺激的で有意義なことだった。コンクリートの壁を2時間見続けるか、それとも毎秒変化していく景色を2時間見続けるのか―――そこには天と地の差があった。

 

 

一方で二階建て新幹線の上級者向けの楽しみ方として、地下の座席に座る、というものもあった。コンクリートの防音壁を2時間見続けるという意味では、普通の新幹線に乗るのと変わらない。この最大の楽しみは、駅に停車するたびにホームの床の断面を見ることができる、というところにある。なんとも変態的な幼稚園児であるが、まあ子どもというのは多分に大人の理解の範疇の外にあるものなのだ。しかも、駅に停車した時にしか見ることができないので、駅間は基本的に我慢の時間であり、ある種のマゾ気質が養われたようにも思う。

掃除の行き届いていない閑散とした駅のホームだと、ほこりが落ちている。断面の模様についてはもう覚えていない。そんな駅ごとの些細な違いや、駅の普段見ることのできない別の顔を目にしては、隣で本を読んでいる母にひとつひとつ報告していた。

 

 

東京へと這い出るには、長い長いトンネルを通過する必要があった。このトンネルは、表日本と裏日本を分断しつつ繋いでいる、そんな境目としての機能を果たしている。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた。」のようなフレーズそのものである。トンネルに入るまでは、ただひたすらに田んぼと山、雲と雪、陰湿さと諦念があるのみだが、トンネルを出ると、あたたかな陽差しと果てしない住宅街が広がり、根拠のない自信と何かが始まるのではないかという期待であふれ、それらの傾向は東京に近づくにつれてより顕著になる。そして、それらの境目がトンネルなのである。トンネルの中は真っ暗で、気圧の関係で耳がおかしくなる。不安と一緒に何度も、つばを呑み込む。幼い自分にとって、トンネルはまさに乗り越えるべき、我慢すべき空間であった。いわばサナギのような期間であった。

 

 

ところで、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた。」というのは、表日本の人間視点の表現である。私からすれば、「国境の長いトンネルを抜けると陽の国であつた。」とでもなるのだろうか。もっと言えば、「私からすれば」というよりもむしろ、「幼い頃の私からすれば」ということである。裏から表へ出て、また裏へ戻っていく人間の視点である。祖父母の家は東京と同じ陽の国、表の国である。祖父母、特に祖父は人情味もあり非常に活発な人間であったため、釣りや潮干狩り、カラオケやボウリングやサッカー観戦など、さまざまなイベントを企画しては私たちを"引率"してくれた。祖父母の家に行けばほぼ間違いなく楽しい時間を過ごすことができた。母の帰省について行くことは、非日常としての陽をめいっぱい浴びるイベントでもあった。これは私が高校生の頃までほぼ変わることはなかった。したがって、新幹線に対して抱いていた感覚もほぼ変わることはなかった。この新幹線に対して、東海道新幹線以上の意味や役割を感じるのだ。

 

 

まだ書きたいことがありますが、いったん切ります。