変化と喪失
疲れからか、2日連続で逆方向の電車に乗ってしまう。
場末の焼酎一杯で、頭が痛くなってしまう。
課題の締め切りが守れなくなる。
以前好きだったひとに、何もときめかなくなってしまう。
年を重ねていくにつれて、もちろん経験が増え、視野が広くなり、こなせるようになることは増える。おそらくもう、片手間に作った中華炒めやぶり大根で家族を喜ばせることもできる。
しかしそれと同時に、できなくなること、喪うもの、も増える。
"健康な体があればいい 大人になって願う事"
藤原基央は言語能力が高い。
生きていれば必ず死ぬし、夜の後には必ず朝が来るし、水は川を降って海に注ぎ、雲になってまた山へ戻る。
「短冊、なんて書いたの?」
「んー、この幸せがずっと続きますように、って。」
永遠とは現象ではなくて、願いである。
ひとはものを食べて、からだにこの地球の一部を取り入れる一方で、地球に身体の一部を返す。そもそも、存在からして絶えず変化するものだ。しんちんたいしゃ、ってやつだ。ひらがなで書くとかわいい。
どうもわたしは、「生きること」「変化すること」イコール「あたらしいものを手に入れること」だとしか思っていないらしい。「生きること」「変化すること」には「ものを捨てること」や「ものを喪うこと」がついてまわる、という事実から目を背けているらしい。(捨てるというのは能動的な営みで、喪うというのは受動的な営みだ。)
昔から、ものを捨てるのが下手だった。掃除機や洗濯機が壊れて業者に回収されていくときには必ず泣いていた。忘れることが怖くて、反芻しているうちに記憶力がついていった。2月の終わりくらいから3月が来るのが怖かったし、3月になればずっと3月でいてほしかった。そのくせ、4月になれば3月までのことなんかけろっと忘れてしまって根拠のない期待感で胸をいっぱいにしていたし、ときめいた小石やどんぐりを片っ端からポケットに突っ込んでは家に帰るとそのことを忘れてズボンを洗濯に出してしまって母と洗濯機を困らせたし、祖父が亡くなったときは死そのものが大きすぎて混乱が悲しみを圧倒した。なんともご都合主義なものだ。
おそらく、所有欲は人一倍あるが、「所有に伴う責任」については鈍感なのだろう。だから、カブトムシは捕まえたときが一番幸せだった。あるいは、カブトムシが好きだったのではなく、カブトムシを捕まえることのできるじぶんが好きだったのかもしれない。
そうこうしながら、なけなしの能力や地位や財産(と呼べるかわからないもの)を引き連れてここまで来たのだけれど、持つことの限界や、持つことで生まれる苦しさ、持てなくなることや喪うことのつらさ、がいよいよ大きくなってきた。まだ完全に消化してじぶんのものにできたわけではないけれど、痛みが少しでも和らぐことを願って、「捨てること」「喪うこと」「いまを生きること」ついて書き残しておこうと思う。
"死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。"
ほんとはノルウェイの森についてもっと書きたいけれど、ここでは軽く。
生死に限らず、ものごとには必ず終わりがある。あるものごとが存在するとき、それには必ず終わりがある。そのことを、まずは自覚しよう。研究室も、サークル活動も、親との関係も、この先の新たな無数の出会いも、じぶんの人生も。いつか終わることをまずは念頭に置こう。終わりを、予想しよう。受け入れよう。
"さよなら 君の声を抱いて歩いていく"
-楓 / スピッツ
"船に乗るわけじゃなく だけど僕は港にいる
知らない人だらけの隙間で 立ち止まる
遠くに旅立った君に 届けたい言葉集めて
縫い合わせてできた歌ひとつ 携えて"-みなと / スピッツ
"この街を繋ぐ幾千の 幾千の音
重ねてゆけばいつかあなたの声に近づくのかな
坂の上り下り幾千の 幾千の理由
拾いながら 溢しながら 今
また春が来ます"
"この街を繋ぐ幾千の 幾千の光
組み合わせればいつかあなたの影に近づくのかな
道の曲がり終わり幾千の 幾千の理由
拾いながら 溢しながら 今
また春が来ます"
-聲 / 倉田京
"死んだ人はずっと死んだままだけど、私たちはこれからも生きていかなきゃならないんだもの"
"しかし結局のところ何が良かったなんて誰にわかるというのですか?だからあなたは誰にも遠慮なんかしないで、幸せになれると思ったらその機会をつかまえて幸せになりなさい。私は経験的に思うのだけれど、そういう機会は人生に二回か三回しかないし、それを逃すと一生悔やみますよ。"
"どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。"
また、終わりにまつわる苦しみの存在も自覚しよう。
苦しみを消すことは諦めよう。痛みとはおそらく歩いていれば増えるものなのです。それでいいし、そういうもの。もがくじぶんはダサいかもしれないけど、かっこつけて爆死するのはもっとダサい。
でも、その痛みにかまけて、目の前のことを疎かにしたり、大切にしたいものを大切にしなかったり、幸せを見逃したりするのは違う。
"君が思い出になる前に もう一度笑ってみせて"
-君が思い出になる前に / スピッツ
"出来るだけ離れないで いたいと願うのは
出会う前の君に 僕は絶対出会えないから
今もいつか過去になって 取り戻せなくなるから
それが未来の 今のうちに ちゃんと取り戻しておきたいから""そしていつか星になって また一人になるから
笑い合った 過去がずっと 未来まで守ってくれるから"-宇宙飛行士への手紙 / BUMP OF CHICKEN
いまやっていることに何かしらの意義を感じているなら、終わりまで精一杯やること、終わりまでやり遂げること、がその意義を感じるじぶんに対して責任を取るということだろう。つまり、おそらく所有に対する責任とは、究極的には過去の自分に対する責任。歌詞に「君」という言葉が出てくるとすぐに恋愛の歌だと考えるひとがいるけれど、こういうことを考えるにあたって「君」という言葉はとても便利だなあと最近思う。
もがきながら、でも確実に、いまを大切に生きよう。大切に生きた"いま"が、苦しみに化けつつもかけがえのないお守りになってくれることを願って。
「短冊、なんて書いたの?」
「んー、この幸せがずっと続きますように、って。」
『そうか、じゃあ、がんばるね。』
永遠とは現象ではなくて、願いである。もっと言えば、終わりを自覚した上での努力である。