書店でもらったブックカバーが捨てられない

最近、こんなご時勢ということもあって、部屋の片付けをしている。

調味料、服、プリントなどの整理を終え、いよいよ本棚の整理に取り掛かったのだけれど、あることに気づいた。

どの本にも書店でもらったブックカバーがかかっていて、何の本なのか一目でわからない。

 

 

 

本を買うとき、毎回ブックカバーをもらうことが自分の中で習慣というか義務のようなものになっている。

きっかけはおそらく、手汗対策 ―――見苦しい話で申し訳ないが、そこそこ手汗をかくので、手汗で元のカバーをふやかしたくない――― の一環だったと思う。しかし、中高生時代ももうそろそろ遠い存在となってきており、代謝も落ちている。もう手汗はそんなに出ない。現在もなおブックカバーをもらい続けるモチベーションは、別のところにある。

 

ひとつは、単純にデザインが好きだということ。

もうひとつは、ブックカバーが、その本をお迎えしたときの自分を思い出させてくれる、ということ。

 

 

ひとつめ、デザインについて。

冗長だし、内容的にはこの記事で書きたかったことの2割くらいのものなので、さらっと読み飛ばしてほしい。

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これらは大学の書籍部のカバーだ。上のものは1・2年生のキャンパスの書籍部で、下のものは3・4年生以降のキャンパスの書籍部で、それぞれもらえる。

上のものには何やらいろいろな言語でよくわからないことが書いてあるようだが、これらはすべて、

日本国憲法第9条【戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を~(以下略)

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の~(以下略)

を訳したものであるという。なぜブックカバーに第9条をもってこようと思ったのか、また、なぜそれを13か国語で訳そうと思ったのか。考えれば考えるほどじわじわ来るし、このカバーをぱっと見て「あ、日本国憲法第9条だ!」と思う人は書籍部でブックカバーをもらったことのあるひとくらいなのではないか。秘密を知る者どうしを引き合わせる、暗号のような不思議なカバー。でもその秘密は明後日の方向にあるもので、知ったからと言ってどうなるものでもない、どこかおかしなもの。

 

一方、下のものは上のものとは打って変わって、素朴なデザインが採用されている。ネコ型人間とでも呼ぶべきクリーチャーたちが宇宙空間で遊んでいる。かわいい。

書籍部は、

「大学に入学したての頃は勉強熱心で正義感にあふれ、硬派として生きていくことを心に決めていたが、3年生にもなると世間を知り、自身の限界を知り、時には堕落しながらも気楽にのほほんと生きるようになる」

という大学生あるあるをブックカバーのデザイン変遷でそれとなく表現しているのだろう。やりおる。

 

 

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これは地元の書店のブックカバー。再生紙のクリーム色にビリジアンがよく映えている。単純化された本の背の丸み具合も大好きで、いったい誰が手掛けたのか知りたくなるほどストライクなデザイン。三省堂紀伊国屋丸善などの大手書店はよく見習ってもらいたいものだ。今度帰省したらここでたくさん本を買おう。

 

 

 

話が長くなった。

もうひとつ、こちらが本題なのだけれど、ブックカバーが、その本をお迎えしたときの自分を思い出させてくれる、ということ。

例えば先ほどのカバーたちには、

「大学2年生のときに」「書籍部で」買った

「大学3年生のときに」「キャンパス移動後の書籍部で」買った

「大学進学の際に」「地元の書店で(正確には父親の本棚から)」買った(もらった)

などの、「いつ」「どこで」その本と出会ったのか、という情報が詰まっている。時期によって行動範囲が異なり、それゆえ頻繁に利用していた書店が異なる、というわけでこの手法が機能している。おおまかにこの「いつ」「どこで」がわかる程度だけれど、中にはそこから広げて、当時どんな気持ちでこの本を手に取ったのか、どの本の読後に連鎖して読もうと思ったのか、誰から薦めてもらったのか…などの多元的なことを思い出すきっかけにもなったりする。少なくともじぶんの中ではそうである。浪人期に高校の現代文の教科書から背伸びして神保町の三省堂(予備校から歩いて行ける距離にあった)で谷崎潤一郎を買ったこと、社会学に興味があった時期と三省堂で駒ケ根市とのコラボカバーを出していた時期が被っていたこと(そしてその期間はともに短かったこと)、失恋して茫然としていたときにふと立ち寄った赤羽駅内のbookexpressで偶然目に留まってノルウェイの森を買ったこと。

たいていの本というものは大量生産されているもので、身もふたもない言い方をすればどこにでもあるものだけれど、書店のブックカバーを纏うことで、自分との関係性の中に落ちていき、ゆるぎないものになる。そういった意味で、書店のブックカバーはいわば自分の外部記憶装置のようなものであり、本と自分を繋いでくれる媒介者であり、本のもうひとつの衣装である。

 

 

 

今回、全部剥ぎ取って捨ててしまおう、そうすれば本も探しやすくなる、と思いかけたが、やっぱりやめよう。

ブックカバーは、愛おしい。